映画『ジョーカー』の“不穏さ”と“安らぎ”が同居する劇中歌 アカデミー賞作曲賞受賞を機に解説
中でもヒドゥルが奏でる音楽と、主人公アーサーが分かち難く結びついているのは有名な“舞踏シーン”だ。地下鉄で衝動的に3人の男を撃ち殺した彼が、公衆トイレに逃げ込み突如としてダンスを踊り出す。アーサーの内部にジョーカーが立ち現れる重要な部分である。脚本の段階では、凶器となったピストルの隠し場所を探すだけだったこのシーンに舞踏を取り入れたのは、ホアキンのアイデアだったという。しかも先のインタビューによれば、そこで使われた楽曲「Bathroom Dance」こそ、ヒドゥルが稲妻のような身体的な反応と共に生み出した、この映画のための最初の楽曲だったのだ。
また映画の中でヒドゥルの音楽は、アーサーの精神状態とシンクロし徐々に「音数」を増やしていく。序盤、クラウン(ピエロ)に扮した孤独なアーサーが、ゴッサムシティの路地裏で少年たちに袋叩きにあうシーンでは、ほとんど無伴奏チェロのような楽曲「Defeated Clown」が流れていたが、世間から孤立したアーサーが次第にフラストレーションを募らせると、それに併せてオーケストラの編成も大きくなる。果たしてスコアが最も複雑になるのは、アーサーがゴッサムシティの群衆を先導し、「ジョーカー」となるクライマックス。ここで流れる「Call Me Joker」は、生楽器によるオーケストラとインダストリアルなサウンドを融合した、本サントラの中でもとりわけ複雑なアレンジが施されている。もともと10分以上あった曲を、シーンに合わせて何度もエディットし完成した楽曲だ。ウェブサイト「/Film」のインタビューで、ヒドゥルは次のように語っている。
「この物語は、まるでクレッシェンド(「だんだん強く/大きくなる」という意味の音楽用語)のようです。序盤ではアーサーが何者であり、どこからやってきたのか、彼は何故そこにいるのか観客には全くわからない。そんな曖昧かつ感情的なオープニング・シーンでは、チェロによる独奏が相応しいと私は考えました。監督のトッドも、この作品の主軸となるのはチェロだと最初から決めていたようです。アーサーが少年たちに叩きのめされるシーンでは、ほとんどチェロしか聴こえません。しかし、その後ろでは大編成のオーケストラが隠されている。観客はそれを聴き取ることはできませんが、無意識では“感じて”いる。それをアーサーと共に体験して欲しかったのです」(参照:/Film)
撮影があらかた終わり、編集前のフィルムを受け取ったヒドゥルは、そこで自分の音楽がどのように使われているかを確認し、そこからインスパイアされた楽曲(テーマ曲を発展させたものや、いくつかのバリエーション)をさらに書き上げたという。
通常、サントラといえば映像を基に制作されるものだが、『ジョーカー』のサントラはまず脚本の段階で書かれ、それを現場で流しながら撮影し、編集の段階でさらに音楽が追加された。「音楽」がそこで鳴っていることすら意識させないほど映像と一体化したサントラが生み出されたのは、こうした特殊なプロセスを経たからである。それにより、ヒドゥルが奏でるハイドロフォンの胸をえぐるような狂おしい旋律は、ジョーカーことアーサーの「内なる声」そのものとなったのだ。
■黒田隆憲
ライター、カメラマン、DJ。90年代後半にロックバンドCOKEBERRYでメジャー・デビュー。山下達郎の『サンデー・ソングブック』で紹介され話題に。ライターとしては、スタジオワークの経験を活かし、楽器や機材に精通した文章に定評がある。2013年には、世界で唯一の「マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン公認カメラマン」として世界各地で撮影をおこなった。主な共著に『シューゲイザー・ディスクガイド』『ビートルズの遺伝子ディスクガイド』、著著に『プライベート・スタジオ作曲術』『マイ・ブラッディ・ヴァレンタインこそはすべて』『メロディがひらめくとき』など。ブログ、Facebook、Twitter