映画『ジョーカー』の“不穏さ”と“安らぎ”が同居する劇中歌 アカデミー賞作曲賞受賞を機に解説
1982年、作曲家である父とオペラ歌手の母の間に生まれたヒドゥルは、同国を代表するグループであるmúmに在籍していたこともあり(客演では1stアルバム『Yesterday Was Dramatic – Today Is OK』から参加)、他にもニコ・ミューリーやThe Knife、SUNN O)))のアルバムへのゲスト参加でも知られている。ソロ名義でも数枚の作品をリリースしているが、彼女の名を広く世に知らしめたのはやはり師匠であるヨハン・ヨハンソン(2018年逝去)とのコラボレーションだろう。『プリズナーズ』や『ボーダーライン』、『メッセージ』などヨハンが手掛けた数多くの映画音楽に参加した彼女は、それぞれの作品の中でチェロやハイドロフォンを演奏し圧倒的な存在感を放っている。ちなみに、ジョーカーことアーサー・フレックを演じてオスカーの主演男優賞に輝いたホアキン・フェニックスが、パートナーであるルーニー・マーラーと共に出演した映画、『マグダラのマリア』のサントラを担当したのもヨハンとヒドゥルである。
彼女を唯一無二足らしめているのは、「不穏さ」と「安らぎ」が同居したその独特の旋律に加え、前述したハイドロフォン(Halldorophon)と呼ばれる楽器の持つ奇妙な音色によるところが大きい。エレクトロチェロの一種ともいえるハイドロフォンは、通常の4弦とは別に共鳴弦を4本備えており、それを電気的にコントロールすることによってドローンやループ演奏、フィードバックなどを可能にしている。たとえば、『ジョーカー』のサントラに収録された楽曲「Call Me Joker」の2分13秒、2分57秒あたりを聴いてもらうと、ハイドロフォンが一体どのような音色なのか分かるはず。まるで獣の咆哮のような、この不気味なサウンドがジョーカー(アーサー)の「内なる声」を見事に表現しているのだ。
映画『ジョーカー』の監督を務めたトッド・フィリップスがヒドゥルを起用したのは、彼女がヨハンの推薦によりサントラを手掛けた『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』(『ボーダーライン』の続編)を聴いたのがきっかけだったという。脚本を書き上げたトッドは、それをすぐヒドゥルに送り、「ファーストインプレッションで曲を書いて欲しい」とリクエスト。ヒドゥルは脚本のみを頼りに幾つかの楽曲を制作した。撮影現場では、シーンによってがそれを流しながら行われたという。
「アーサーのコスチュームやコレオグラフィ、映像のエディットなどの影響を受けず、脚本からのダイレクトな印象だけで映画と“繋がる”ことが出来たのは、とても良かったと思っています。椅子に座ってチェロを抱え、アーサーの性格や声、心の中へと入っていく道を探っていると、突然稲妻が走るような感覚がありました。“これこそが、アーサーの音楽だ”という身体的な反応があったのです」(参照:BMI)
ウェブサイト「BMI」のインタビューで、そう語っていたヒドゥル。『ジョーカー』のサントラがあまりにもアーサーと“一体化”していたため、シーンによっては「音楽」が鳴っていたことすら意識していなかった観客もきっと多いはず。おそらくそれは、こうした「特殊なプロセス」でサントラが制作されたことも大きな理由として挙げられるだろう。