日本人はなぜ“空耳”を好んできた? MONKEY MAJIK×岡崎体育「留学生」を機に考える

「留学生」は言葉の壁と対峙する主人公を応援する歌にも

 一方、最近のQueenブームでは、彼らが日本語入りの詞で発表した「手をとりあって Teo Torriatte(Let Us Cling Together)」が、早くからバンドを認めてくれたこの国への感謝を示したものと美談の扱いで紹介される。その通りではあるけれど、洋楽のアーティストが日本語で歌ってファンサービスすることに関して、日本の洋楽ファンすべてが素直に喜んできたわけではない。The Police、デヴィッド・ボウイ、King Crimsonなどが日本語を使った曲を発表した際、発音のおかしさやリズムに対して間延びした響きなどを揶揄する声はあった。「手をとりあって」にも「を」が「YO」に聴こえるなど微妙な部分はある。

 日本人は、義務教育で少なくとも中学の3年間は英語を習う。高校、大学でさらに長期間、英語を教わった人も大勢いる。なのに、話せるようになった人は少ない。私も話せない。母国語以外の言語をどれだけ操れるか、K-POPアーティストとJ-POPアーティストの差をみれば日本人の語学力の平均はわかる。

 それでいて、コンビニなどの外国人店員のたどたどしい日本語を嘲笑したり怒ったりする人がいて、その行為が批判されもする。ぎこちなくても他言語で仕事ができるというレベルの語学力を身に着けた日本人がどれだけいるのか、恥ずかしいほどなのに。

 日本語ロック論争にもあらわれていたように、この国の人間は、外国語を喋れることへの憧れと喋れないことへのコンプレックスをずっと抱えてきた。その反動で外国人によるぎこちない日本語を攻撃する人もいる。言語をめぐるそんなモヤモヤした感覚をくすぐるところがあるから、空耳というものが長く楽しまれてきたのだろう。

 そして、「留学生」は、英語が日本語に、日本語が英語に聴こえる構成で、2つの言語の間で生活する人物の姿を描いている。空耳だらけで笑いに包んでいるものの、よく聴くと、言葉の壁と対峙する主人公を応援する歌にもなっている。実は感動する詞だし、意外と意味深い曲なのだ。

■円堂都司昭
文芸・音楽評論家。著書に『エンタメ小説進化論』(講談社)、『ディズニーの隣の風景』(原書房)、『ソーシャル化する音楽』(青土社)など。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「コラム」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる