映画がTVゲームを追う時代が来る? 『アサシン クリード』哲学的なテーマが示す未来
TVゲームをプレイするのは好きなものの、わりとすぐに飽きてしまう私が、珍しく長く熱中し続けている二つのシリーズが、『グランド・セフト・オート』と『アサシン クリード』だ。これらの共通点は、リアルに構築されたヴァーチャル世界を冒険しながら、「映画のような」雰囲気と人間ドラマ、危険なヴァイオレンスとユーモアが楽しめるところである。だから、この度映画化された本作『アサシン クリード』は、とりあえず、「映画のようなゲーム」を映画化した、「映画のようなゲームのような映画」といえる。『アバター』や『ジャングル・ブック』(2016)など、CGで構築された世界を舞台にした映画が作られているように、近年、映画とゲームは互いに接近し、その違いが分かりにくくなってきている。
ゲーム『アサシン クリード』のファンとして、映画化企画『アサシン クリード』は、一体どうなるものかとハラハラしながら待ち続けたが、実際に見てみると、原作ゲームのアクションや美術などの要素を再現したうえで、そのような表面的な部分に終始するわけでなく、ゲームの楽しさの裏に隠された肝(きも)の部分である、哲学的ともいえる壮大なテーマをしっかりと拾ってくれていたので、とても胸がすく思いである。前作でシェイクスピア劇の映画化に挑んだジャスティン・カーゼル監督の目は、やはり確かだった。では、本作が描いた『アサシン クリード』の肝とは何だったのかを、ゲームの内容を踏まえながら考察していきたい。
『アサシン クリード』は、「ステルス・アクション」と呼ばれる、うまく隠れながらタ−ゲットとなる敵をこっそりと倒していくゲームだ。プレイヤーは、古い時代のアサシン(暗殺者)となって、エルサレムやフィレンツェなど、歴史的な街の雑踏に紛れ込み、厳重な警戒を気づかれずに突破し、ターゲットのわき腹に刃を滑り込ませたり、頭上から飛びかかって倒したりするのである。まさに映画のような場面を、プレイヤーがゲームのなかのキャラクターにかっこよく演じさせることができるのだ。しかしモタモタとプレイしていると、壁にへばりついたり屋根に上ったりなどの隠密行動を通行人たちに目撃され、「あの人、あんな場所でおかしなことをやっているわ」、「いい大人なのに、恥ずかしくないのか」などの様々な心無いことばを投げかけられるという演出もあって、少し胸が痛くなってしまう。さすがに映画のアサシンたちは、そんなヘマをすることはなく、かっこよく建物の上を跳びまわり、颯爽と空中を舞っていたが。
忍者やパルクールのように、いくつもの建物や障害物を飛び越えるおなじみの技や、袖口から隠された刃物が飛び出す「アサシンブレード」、高い場所から一気に生身で降下する「イーグルダイブ」などの技は、映画でも再現されている。なかでも「イーグルダイブ」は、約40メートルの高さから、スタントマンが本当に生身で落下する映像を合成しており、アクションに説得力を与えているのだ。
『アサシン クリード』の特徴は、これだけではない。このゲームの世界観の設定は、かなり複雑なことになっている。じつは、このアサシンの活躍は、「アニムス」とよばれるマシンによって過去の時代を忠実に再現した、コンピューターのデータ上の世界での出来事なのである。現代に生きるアサシンの子孫の神経にマシンを接続し、バーチャル世界を疑似体験させているというかたちで、その戦いが再現されている。このデータは、アサシンの子孫から取り出された遺伝子に刻み込まれた「祖先の記憶」によって、かたちづくられたものなのだという。…私も説明しながらよく分からなくなってきたが、要は『マトリックス』や『アバター』のようなマシンにつながれた主人公の精神が入り込む先が、彼の祖先にあたるアサシンの記憶なのである。なぜそんな複雑な設定が必要なのかと思ってしまうが、この「観客(プレイヤー)」ー「アニムスに繋がれた主人公」−「アサシン」という、入れ子的な構造を経ることで、観客(プレイヤー)は現実感覚を攪乱され、現実と疑似体験の境界が曖昧になっていく感覚を味わえるのである。マシンの助けを得て疑似体験する主人公と、ゲーム機でそれを操作するプレイヤーとは、非常に酷似しているのだ。