映画がTVゲームを追う時代が来る? 『アサシン クリード』哲学的なテーマが示す未来
ゲームでは主人公が、複数の時代、複数の場所で活躍した、様々な伝説的アサシンの記憶にダイブする。そこで展開されるのは、「テンプル騎士団」と「アサシン教団」との、連綿と続く戦いの歴史である。そして、その戦いは現在も続いているのだという。これは秘密結社が歴史上世界を支配してきたという陰謀論が基になっているが、おそらくここで「テンプル騎士団」として象徴されているのは、いつの時代にも存在する、民衆を支配する権力者の価値観が抽象化されたものであろう。それに抵抗する価値観が「アサシン教団」なのだ。
それは、権力と革命の戦いであり、保守派と革新派の戦いであり、専制主義と民主主義の戦いであり、資本主義と社会主義との戦いであり、マジョリティとマイノリティの価値観の戦いなのである。時代によって、そのかたちは違えども、その本質は「テンプル騎士団」的価値観と「アサシン教団」的価値観の対立に還元されるというのである。どちらが善でどちらが悪かというのは、その人の考え方や立場によって異なるかもしれないが、確かなのは、それらは陽が照れば影が生まれるように、常に隣り合わせにあるものだということだ。
映画でも重要な意味を持つ、禁じられた秘宝「エデンの果実」を、テンプル騎士団とアサシン教団が奪い合うというのは、彼らの戦いが、旧約聖書にある人類創生から始まったことを示すものである。『アサシン クリード』が突き付けてくるのは、人類の歴史というのは、二つの主要な価値観による支配と破壊の歴史であるというダイナミックな提言なのである。私はゲームをやっていて、ここまでものすごい大テーマに到達するとは、まったく思っていなかった。「諸行無常」というキーワードで戦(いくさ)の歴史と人の存在の儚さをつなげた「平家物語」や、映画史に刻まれる超大作、D・W・グリフィスの『イントレランス』を想起させられる、「大・力技」である。
かつてフランスの哲学者が、宗教、革命、産業など、人類に共通する根源的な目的が喪失したことを、「大きな物語の終焉」として述べたように、小説にしろ映画にしろ、現代では個人的な生きる実感のようなものが優先され、例えばウォシャウスキー姉妹監督の『クラウド アトラス』など一部の例外を除いて、大きなテーマを描けなくなってきている傾向にある。そこに、それを担うような、時代を代表する作品がTVゲームから出てきたという事実は非常に面白い。
冒頭で「映画みたいなゲーム」と述べたが、それは映画がゲームよりも複雑なものを描くことができなかった時代の発想なのかもしれない。ゲームが映画のような世界を表現できるようになってきたことで、本作のように、映画がゲームの深い思想を追って作られるようになるという、かつての逆転的な実例が生まれてきたというのは、新しい時代を予感させる、映画ファンとしては一種の怖ろしさもともなう、非常にエキサイティングな出来事である。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト
■公開情報
『アサシン クリード』
TOHOシネマズ 日劇ほか全国公開中
監督:ジャスティン・カーゼル
出演:マイケル・ファスベンダー、マリオン・コティヤール、ジェレミー・アイアンズ、レンダン・グリーソン
配給:20世紀フォックス映画
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公式サイト:http://www.foxmovies-jp.com/assassinscreed/