菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね

菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評

 *以下のテキストは、 マスメディアがアカデミー賞レースの報道を一斉に始める前の、2月20日に入稿、更に4日前に書かれたもので、つまり所謂 「あとだしジャンケン」ではない旨、冒頭に強調しておく。

今時これほど手放しで褒められてる映画があるだろうか?

 当連載は、英語圏の作品を扱わないので今回は<特別編>となる。筆者は映画評論家として3流だと思うが、本作は、複数のメディアから批評の依頼があった。大人気である。「全く褒められませんよ」「こんな映画にヒーヒー言ってるバカにいやがられるだけの原稿しか書けませんけど」と固辞しても、どうしても書けという。

 そりゃあそうだ。筆者は一度だけヤフーニュースのトップページに名前が出たことがある。ジャズの名門インパルス!レーベルと、米国人以外で初めて契約したから? 違う。女優の菊地凛子を歌手デビューさせたから? 違う。正解は「『セッション』を自分のブログで酷評したから」。流れでさらっと書くがヤフーニュースというのはバカか?

 『君の名は。』や『シン・ゴジラ』でさえ賛否両論ある世界で、本作は、「観た者全員が絶賛」という、気持ち悪いぐらいの受け方をしている。ここ10年、いや、20年でもいい。これほど絶賛が集中した映画があるだろうか?

監督/脚本/そして毎度おなじみモダンジャズのストーカーにして侮辱者であるデイミアン・チャゼルのワンパターンに倣って、最初に一発食らわせることとしよう

 本作は米国アカデミー賞の13部門のノミニーであり、これは何と、あの傑作『イヴの総て』と並ぶ記録だそうだが、もし米国アカデミー賞がこの映画に最優秀脚本賞を与えたら、筆者は映画批評家として筆を折る事を約束する。こんなバカみたいな脚本がアカデミー賞を受賞する世界で映画のことなんか一文字も書く気ないね。今年のアカデミー賞の最優秀賞脚本賞を受賞すべきなのは『ジャッキー』のノア・オッペンハイムだし、最優秀主演女優賞は同じく『ジャッキー』のナタリー・ポートマンである。ただ、残念な事にノア・オッペンハイムはノミニーですらない。

(※筆者後注 最初は博打にしても安全圏を狙って「もし、主要5部門(作品、監督、脚本、主演男優、主演女優)を制覇したら筆を折る」としたが、それでは余りに博徒としてヘタレなので、脚本賞一本に絞った。こんな杜撰な脚本がノミネイトされる事自体、未だに納得がゆかないが、とにかくお陰さまで筆は折らずに済んだし、例の珍事は筆者と同様のお祈りをしていた人々の集合的な無意識の産物であるとしか考えられない。しかしそれでもまだ作曲賞と主演女優賞には不満がある。どちらも明らかに『ジャッキー』のが優れている。嘘だと思ったらご覧頂きたい。驚くから。『ラ・ラ・ランド』程度で喜んでいる人々は、余程の恋愛飢餓で、ミュージカルについて無知で、音楽について無知で、ジャズについては更に無知という4カードが揃っている筈、というかデイミアン・チャゼルの世界観がフィットする人々である。とするのが最も適切だろう。デイミアン・チャゼルに最も近い監督にラース・フォン・トリアーがいる。「どちらもポストモダン・ミュージカルを作っているから」といった水準の見立てではない)

それにしてもアカデミー賞って

 米国アカデミー賞は結構な伏魔殿で、前回、前々回とメキシコ移民であるアレハンドロ・イニャリトゥをスターにし、授賞式で「グローリー」を歌ったジョン<『ラ・ラ・ランド』で微妙に悪役やってます>レジェンドが、当時頻発した白人警官による黒人少年射殺事件を受け「キング牧師時代よりも今の方が監視されている黒人が多い」と、硬派な発言をしたら、ほとぼりが冷めた今年、『ムーンライト』『フェンス』『ヒドゥン・フィギュアス』と、いわゆる「黒人映画」を『ラ・ラ・ランド』の当て馬に配置した一方で、トランプ政権下で、アフロアメリカンの映画が、どうせ奪れない名を連ね、非常に優秀な移民映画(監督がチリ出身、主演女優がイスラエル出身、撮影監督がフランス人、音楽がユダヤ系イギリス人、製作がロシア系ユダヤ人、脚本がおそらく北欧系。という布陣で、アメリカン<バッド>ドリームである、JFK未亡人映画を作る)『ジャッキー』が、かなりのアンダーレイテッドぶりを見せている。メキシコ移民のイニャリトゥが作品を作らなかった事までをこじつけるつもりはないが、本当にキナ臭い話だ。逆に「来るべきトランプ政権」を見越していたかも?という気すらする。と以上余談。

そんな中、文句なしのミュージカル現る

 『セッション』を酷評した筆者のジャッジ・ポイントは、「ジャズ映画なのに、監督がジャズについて半可通すぎる」「脚本が、何が言いたいか全くわからない。最初に一発強烈なカマしがあり、客がパンチドランキング効果でクラクラきているうちに、適当で稚拙な脚本/物語が進み、エンディングに、取ってつけたような乱暴などんでん返しがあるだけの、粗悪ドラッグ」の2点だったが、どういう訳か、前者ばかりがクローズアップされた。後者を認めるのが何らかの理由で怖かったのであろう。

 そしてこの2点は、『ラ・ラ・ランド』でもしっかり生きている。既にチャゼル・マナーである。筆者は『セッション』評を以下のように結び、まあ、オレ様の言った通りにしたから許さなくもないが、本当に「物語の書けない」若者である(今回は、それが功を奏した、という側面が大きい。ミュージカルに必要なのは、周到なプロット作りを下地にした、巧みな脚本などではない)。

 「(音楽を愛しながらも憎み、何しろ音楽に愛されていない)若きスクエア・プッシャー(路上のドラッグ売り)、デイミアン・チャゼル君には(音楽愛に素直になり、ミューズを讃える、という)転向の余地を与えます。同じく転向したダーレン・アロノフスキーのように(後略)」

 *拙著「ユングのサウンドトラック」より。

 『セッション』では暴力とハラスメントの恐怖に飢えたボンクラ童貞どもをヒーヒー言わせたのと全く同じ、コッテコテの手法で、本作は、恋に飢えた女どもを中心にした全人類どもを『セッション』の1000倍の力でヒーヒー言わせるが、ワンカット撮影がすごいとか、ダンスがやばいとか、絶賛の嵐である「また朝が来れば新しい日」の映像は、肝心要の楽曲が素晴らしいので持って行くが、4分の映像としては、これは気の利いたTVCMの仕事である(本作の「ミュージカルシーン」の全てがそうなのだが)。

 金をはたいて優れたアートディレクター、コレオグラファー、撮影監督を雇えば、量産できるレヴェルのものだ。そして歌詞の内容は、テレビミュージカルの金字塔『glee/グリー』の実質的な主題歌であるジャーニーの「ドント・ストップ・ビリービン」とほぼ同じであり(検索して比べてみるといい。テーマが同じだけではない、ほぼほぼパクりである。因みに、『glee/グリー』全体、特にこの主題歌の搾取のされ方は凄まじく、あの『アナ雪』の主題歌は、ほぼこの曲の主題歌のコード進行とビートで、『glee/グリー』の主人公の母親役の女優が歌っている)、LAはハリウッドに夢を抱えてやってくる若者たちの、夢の躍動を余すことなく描き、「最初の一発のカマし」としては、結構なハードパンチである。

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