なぜ漫画「壇蜜」は最高なのか? さやわかが漫画家・清野とおるの「うまさ」を解剖


清野とおると壇蜜が結婚したのは2019年11月だという。個人的には、何だかいいニュースだなと思った。二人の仲がよければいいなと思った。
清野とおるは、今どき珍しい「サブカルっぽい」漫画家だ。ただ「サブカルっぽい」という言い方自体、もはや世間的に通用しなくなっている。そういう言い方をすれば「ですよね~フフフ~」とか思う人への、サービスで書いただけである。
「サブカルっぽい」という言い方は死滅したし、ジャンルとしての「サブカル」も滅殺されたと思うので、令和の世の中はたいへんスッキリした。一市民としても、実に清々しい気持ちである。
しかし、かつてならサブカルっぽいと呼ばれたであろう案件というのは当然ながら存在し続けていて、清野とおるはその代表格である。かつてと違うのは、そういう案件は「ウーン、マニアックだねフフフ~」とか言いたがりの人たちが、自分的にはコソコソ隠れてるつもりで嗜むものではなく、超平然と世の中に存在し、かといって見過ごされるのでもなく、多くの人に存在を知られていたり、すごくそれなりに価値を理解されていたり、なんならすごい愛されていたりすることである。
清野とおるについて書いているつもりが、いつのまにか、壇蜜についての文章みたいになってしまった。これは、わざとそう書いたわけではなく、たまたまそうなったのである。しかし、たまたまそんな文章になったとすると、やはり二人には似通ったところがあり、結ばれるべくして結ばれたのか。みたいな、気持ち悪いオヤジの結婚式スピーチみたいなことを書くつもりもないのだが、なにせ『「壇蜜」』の作品内容が、この2人が結婚したことそのものだというのだから、どうしてもそういう内容にもなってしまう。
とにかく、清野とおるも、壇蜜も、パッと見は、年長世代から見て「サブカルっぽい」「自分にも親和性の高そうな」ひとなのだが、しかしよく見ると、ずっと洗練されていて、なんならこちらのそうした考えを踏まえた上でさらにその上をいっていて、ずっと遠いところにまでリーチしているのである。
単に「サブカルっぽい」だけではないとは、どういうことか。もちろん、清野とおるの漫画について、誰もが、言うまでもなく、彼の扱っている「ネタ」そのものを圧倒的に面白いと言うだろう。が、たとえば彼は実際のところ、そういう「ネタ」の強さを踏まえつつ、漫画そのものがめちゃくちゃうまいのだ。
清野とおるの「うまさ」を解剖する

「漫画そのものがめちゃくちゃうまい」というのはどういうことか。というと、まず第一に、彼はネームがめちゃくちゃうまい。
ネームがうまいというのは、ざっくり言うと、ページ内で読者の視線をどのように動かし、どの順序で、どのくらいのスピードとテンポ感で読ませ、何なら頭の中でセリフを音声再生させ、どういう内容であるかを作者の意図した通りに完全に理解させ、意図した通りの感情にさせることができる、ということである。
たとえば、『「壇蜜」』第1話の8ページ3コマ目を見てほしい。このコマを読む際、読者は当然ながら、まず①「僕とは違い一般ウケしまくり売れまくりな上での低空飛行なので歯がゆくもどかしく思いますが」というナレーション(モノローグ)を読みはじめる。そうすると文章を読み終わったあとに、ごく自然な形で、②「事務所も破産した…」というセリフが目に入り、それを読み終わったタイミングで眉根を寄せてベッドで寝る壇蜜の表情が見え、さらに、その壇蜜の表情とセリフに対するリアクションとして、なんとも言えない面持ちで左後ろに目を逸らす清野とおる、および「…」という吹き出しが目に入る。この絵自体、前のナレーションの後に「お芝居のシーン」として挟むものとしては絶妙なのだが、さらにその絵を見た後で、清野とおるの視線の先に目を泳がすと、③またナレーションとして「こうして生きててくれるだけでも喜ばしくも思える今日この頃です」という文言を読ませて、「お芝居」から地の文にテンポよく復帰する。
そもそも最初のナレーションの文字数(情報量)が心地よく、そのあとにポンと短くて効果的なセリフのくる感じ、壇蜜の顔、部屋の暗さ、清野とおるの顔と視線、そしてナレーションの続きに戻る感じ。きわめてわかりやすい、たった1コマの例なので、もっといろんなうまさを説明したいところだが、これだけでも、細かなコントロールがあるのがわかるだろう。うまい~、と思わせる。
「当たり前じゃないか、そういうふうに描いてあるんだから」だと思う人はむしろ正しくて、普通はこういうふうには描けないのである。清野とおるくらい、うまい漫画家じゃないと、こんなに端的に、必要十分に、かつリズムをもって、面白く描けはしない。前に一度だけ清野氏の登壇するイベントで司会をやってご本人と会話したときも、ネームに対する並々ならぬこだわりを感じた。
彼が親しくしている押切蓮介氏もそうだが、90年代から00年代前半、いまより紙出版の盛り上がっていた時代に講談社などで下積み新人時代を過ごした中堅以降の漫画家には、こんな感じでリズム感がよく、内容がアタマに叩き込まれ、切れ味鋭いネームが描けて、とてもかっこいい人が多いことは、間違いない。もちろん、下積み自体はとてもつらい経験なのは言うまでもないけれど。
みたいなことを書いていると、「なるほど。こいつはつまり清野とおるのネームのうまさを強調してやがるということは、絵のほうは、うまくないということかな」と思う人もいるかもしれないので、急いで付け加えるが、いや清野とおるは、絵もうまい。

漫画にとって「絵がうまい」というのは、狭い意味の「絵がうまい」というのと異なるので、説明は難しい。こういう言い方をするといいかもしれない。まず前述のように、清野とおるは完璧に面白いネームを描くことに力を注いでいる。そして、そういうネームが描けているからこそ、大胆に絵に凝ることが、できているのだ。『「壇蜜」』の絵を見ると、違和感があったり、不気味だったりもする。また、壇蜜の似顔絵がひどく似ていたり、はっとするようなエモーショナルな表情を、繊細に描いていたりもする。とてもよい。
お待ちかねの“結婚編”へ

そういう、テクニカルな安定感を満たしながら、鋭いアーティスト性を与えてくるところも、やはり壇蜜というひと、そのものに似て感じられてくる。思えば「これは「壇蜜」という存在への潜入取材記録である」というキャッチコピーも、微妙に下品なようで、しかし生々しく、しかも凛々しい雰囲気があって、これまた清野とおるの他作品についても言えることのようにも思うが、壇蜜そのものを指した言葉のようでもある。
まあ、そういった、二人の相性がどうこうについては、もういいだろう。しかしそれでも、そもそも清野とおるが『「壇蜜」』の連載を開始したとき、「これは、一番すごい球を投げてきたな」という、並々ならぬものを感じた。回顧の形で描かれているところも含めて、だからこそ何か、それを描く理由があるのだろうと思わせるところがある。
清野とおるは、自分の人生とか、現実とか、表現などについて、常にギリギリの際がどこなのかを試そうとしていて、もちろんそれが称賛に値するのだが、先日発売された最新3巻では、いよいよ、本当に二人が婚姻届を世田谷区役所に提出するくだりが描かれている。このあたりは「モーニング」誌で読んでいるときにも、この作品が佳境に入ったのを感じさせた。そういえば来年には二人が初めて出会ってから10年になるわけで、やはり進め方を細かく考えて作られている作品だと思わせる。
つまり、こんな、あらゆる面で完璧に全力にすごく強くてしかも頑張ってる必中攻撃みたいな漫画、(最低でも)人気が出なくてはいけない。連載当初からそうだった。それから時は経ち、最新巻の発売時には累計50万部を突破したと書かれている。やっぱり、何だかいいニュースだなと思った。同じ世田谷区民としても言祝ぎたい。
■書誌情報
『「壇蜜」(3)』
著者:清野とおる
価格:792円(税込)
発売日:2026年7月22日
出版社:講談社






















