渋谷陽一のロック批評とは何だったのか? ばるぼらの『メディアとしてのロックン・ロール 渋谷陽一評論集』評

批評は批評で独立して自立した読み物だ
これまでちゃんと読んだことがなく、「最後の単行本」というキャッチコピーをきっかけに、何か感傷的な気持ちで読み進めようとした人は、あまりの挑発的な文体に面食らうだろう。一体この人はなぜずっと怒りっぱなしなのかと。それはもちろん、自分たち以外すべてのロック・ジャーナリズムがゴミだったからだ。
日本のロック批評を考える上で読まなくてはいけない本が出た。2026年6月9日に刊行された『メディアとしてのロックン・ロール 渋谷陽一評論集』である。雑誌『ロッキング・オン』『CUT』をはじめ数々の雑誌を創刊してきた編集者であり、音楽ジャーナリストであり、2025年7月に亡くなった渋谷陽一が、様々な媒体に書いてきた原稿を、「1972-1996」「1997-2025」の2つの時代で区切り、上下巻あわせて約1000ページの単行本としてまとめたもの。6月9日に出たのは「ロックの日」であるのと同時に渋谷の誕生日が1951年6月9日であることに由来する。
『評論集』を読むための事前準備はとくにない。取り上げられている音楽、映画、その他もろもろ、知っている必要はない。渋谷陽一は常々こう言っていた。
〈まず批評は批評で独立して自立した読み物だという発想。そこがスタートラインだと思います〉
〈最終的に極端なことを言ってしまえば、批評対象がなくても批評そのものが表現として自立している。そういう考え方〉(*1)。
何かについて書いた文章が、何かがなくても単体で自立している。そういう発想の人物が書く文章に、むしろ予備知識が必要であってはならないはずだ。だから何も知らない人が『評論集』を読んで、面白ければ渋谷の勝ち、面白がれなければ渋谷の負けである。
それでも読む前に何か一つでも手がかりがほしい、自分にとって『評論集』が読むべきものなのかを知りたい人のために、渋谷はなぜ怒っていたのか、渋谷が考える「ロック批評」とは何だったのか、について検討していく。
「内的必然」のない「客観主義的」なロック批評は最低だ

1972年8月に『ロッキング・オン』を創刊する前、渋谷陽一は怒っていた。1960年代にビートルズやボブ・ディランの登場で、ロックが単なるポップミュージックを超えて、若者文化に大きな影響を及ぼす強烈な表現に進化していた時期に、日本でそれを捉えた評論が一つもなかったからである。渋谷は〈美術手帖、朝日ジャーナル、ユリイカといった雑誌で見当はずれなロック特集を組み、ロックなど聞いた事もないようなろくでもない評論家が、限りなく間抜けな文章を書き散らしていたのだ〉(*2)と批判する。
実際に『美術手帖』1970年10月号の「ROCK IS」特集を見ると、日向あき子(美術評論家)のロックの文明論に始まり、磯崎新(建築家)×木村英輝(デザイナー)×鋤田正義(写真家)×杉浦康平(デザイナー)の座談会、秋山邦晴(現代音楽)、植草甚一(ジャズ)、清水俊彦(ジャズ)、田川律(フォーク)といった畑違いの音楽評論家によるロック論で構成されている。この中にろくでもない評論家は見当たらないし、状況に対する俯瞰した視点があり今でも読める内容が多いが、それこそが渋谷を苛立たせた原因だった。つまりこういうことだ。
〈もっともらしい批評はいくつかできるが、基本的にロックに対し何の知識も興味もない人間が、一切の内的必然のないまま書いていたから最低だったのである〉(*2)
美術評論家が依頼されてロックを聞いて思ったことを書く、というような、受動的な動機と客観的な視点で執筆しているのを渋谷は批判している。美術やジャズやポピュラーミュージックについて書く評論家がロックについて書くこと自体が問題なわけではない。渋谷にとって重要なのは、書き手がロックに突き動かされたか否か、自らを立脚点にしているか否かなのだ。
〈僕にとってそのような客観主義的でジャーナリスティックな位置づけはどうでもいい〉(*3)
〈客観主義的なものでなく、あくまで自分自身がロックにつき動かされたものを文章としていくという、切実な自発性に裏ずけられたものしか必要としないという発想による編集形式なのだ〉(*4。「裏ずけ」はママ)
〈批評とはそもそも対象化の作業であるのだから、自分の内に対象化すべき混沌としたロック衝動を持たないものがロック批評を行ったところでラチがあかない〉(*5)
〈自分自身がどう聴くかって所で意見を言った方がいいんじゃないか〉(*6)
これは当時のジャーナリズムの状況を見れば仕方のない面はある。1970年代初頭はロックが生まれてまだ数年。1964年8月にボブ・ディランがビートルズにマリファナを教え、1965年7月にディランがエレキギターを持ってステージに立ってから、ようやくアートフォームとしてのロックが始まったとして、ロックを専門に書く評論家はまだ海外にすら少なかった時期なのだから。日本では『ニューミュージック・マガジン』でロックを担当していた北中正和がほぼ唯一かと思うし、実際、渋谷は北中に〈ミュージック・マガジンなんかやめて、ロッキング・オンを一緒にやろう〉と誘ったことがあるという(*7)。
くり返すが、渋谷が求めるロック批評は、ロックに受けた衝動、感動をもとに歩き始めるような文章である。そうした書き手もメディアも存在していなかったがために、渋谷は自らが確信するロック批評を自ら書き始めるのだ。
渋谷はどこまで吉本隆明の影響を受けていたか

渋谷がロック批評を始めるにあたって参考にしたのは何だったのか。一般的には、渋谷は吉本隆明の影響を受けているとされ、渋谷本人も多大な影響を受けたと語っている。とは言え、私感では渋谷の文体が吉本にそれほど似ているとは思わない。吉本がRCサクセションやスターリンの歌詞の高度さを見抜き、RCのライヴで高揚する体験を描く短い文章「ロック・グループの世界」(1983-03、共同通信社配信)を読んでも、まるで渋谷のようだとは思わない。そもそも渋谷は吉本隆明直撃世代より一世代下である(と本人が言っている)。
ただ、吉本が編集していた同人誌『試行』(1961~1997、試行社)に影響を受けたのは本当なのだろう。それは具体的な内容よりも姿勢ではないか。『試行』に掲載された原稿は基本的に稿料のない投稿によるもの、という雑誌の在り方がひとつ。巻頭言「情況への発言」の自由奔放な批判精神がもうひとつ。最後に、『試行』で連載された吉本の評論「言語にとって美とはなにか」の執筆動機の影響があると思う。かつて渋谷は吉本にこう確認している(*8)。
──この連載で何度も吉本さんにお話を伺っているように、日本におけるプロレタリア文学の有り様、左翼的な文学者の党派性のようなものを批判し、そういうところではない新しい思想の軸を作り、脆弱な日本の文学的批評を根本から変えようというテーマの中で、それならばちゃんとした普遍的な文学論、言語論を確立しようということで『言語にとって美とはなにか』をお書きになったんですよね?
吉本 はい、そうなんですね。
吉本が肯定したこの動機と同種のものを、渋谷はロックに持っていたのではないか。「文学」を「ロック」に、「左翼的な文学者の党派性」を当時の『ニューミュージック・マガジン』に置き換えてほしい。架空インタビューしてみよう。
──渋谷さんは日本におけるロックの有り様、『ニューミュージック・マガジン』のようなものを批判し、そういうところではない新しい思想の軸を作り、脆弱な日本のロック批評を根本から変えようというテーマの中で、それならばちゃんとした普遍的なロック論を確立しようということで『ロッキング・オン』を創刊したんですよね?
渋谷陽一 はい、そうなんですね。
これは冗談としても、渋谷は吉本が書く文章そのものよりも、既存の思想・批評に対する吉本の姿勢に背中を押されたのではないか。それは渋谷が〈ロッキング・オンの方法論は、そう考えてみると既存の音楽誌に対する一種の批評とも言える〉(*9)と語ることからも窺い知れる。渋谷はロックを批評しながら、既存のメディアを批評しており、そこに吉本の思想を重ねていたのではないか。そう思える。
渋谷の先人として重要なロック批評家・浜野サトル
渋谷が具体的に参考にしたロック批評は何かといえば、浜野サトルのそれだと確信している。浜野は1947年栃木県生まれ、中央大学法学部中退で、吉本隆明に影響を受けた文体で音楽評論を早くから志していた人物。最初期『ジャズ批評』の編集同人で、1960年代は雑誌『スウィングジャーナル』『ポップス』にジャズを中心に執筆、途中からロックについても書き始めた。著書は『都市音楽ノート』(1972-12-10、而立書房)と『ディランにはじまる』(1978-03-10、晶文社)の2冊が出ている。
渋谷の商業デビュー原稿は『ロッキング・オン』創刊より1年以上前、『ミュージック・ライフ』1971年6月号に書いた「枯れつつあるロック界に現われたこわれた放水車GFR」だと本人は語っているが(*10)、その2ヶ月前、1971年4月に『Then』というオリジナルコンフィデンス(オリコン)が発行していた音楽雑誌の2号にすでに原稿を書いているのだ。タイトルは「ロック批評はどこにある」。
この原稿で渋谷は、1970年夏に起きた浜野サトル・田川律・水上はる子の3名によるロック批評論争の顛末と、それをきっかけに浜野が次々と発表し始めたロック批評について見解を書いている。渋谷は論争は浜野に理があると示しつつ、浜野への批判を展開する。それは〈今日、ロック批評の役割を演じるものは、浜野氏の一連の主張との対決をさけてとおるわけにはいかない〉〈現在的には、私にとってロック評論での批判対象は氏のみであるからである〉(*11)と、浜野のロック批評の水準を認めながらも、乗り越えなければならない壁として浜野を見ていたからだ。
浜野の主張を要約すると、聴衆であることに安住せず、自ら表現者の緊張関係の中に飛び込んで「場」を切り拓け、というものである。成長段階の日本のロックに聴衆が不満を持つのは当然で、ライブよりレコードが有利なのだから、演者と聴衆が共に「場」に積極的に介入していくことで、音楽的創造を試みよ、<聴衆の側の不満にいたずらに依拠する者は日和見主義者である!>という具合だ。浜野は書く。
〈われわれは次のことを認めなければならない。結局のところ、われわれは音楽批評という名の領域において自らを語ろうとしてきたにすぎないのだということを。そして、このことに無自覚だという一点において、音楽批評は破産している〉
〈まず聴衆のひとりとしての自己の体験に固執すること。そして、このような体験と内的な欲求とをてこにしつつ、意識の内部で自己を演奏の側へと転位させてゆくことによって、具体的な方向性を指示すること〉(*12)
この主張に渋谷の批評観が反応した。渋谷は斬り込む。(※把え=ママ)
〈今我々がロック批評なるものを始めようとするなら、自らの聴衆としての位置を再度把え直し、そこでの自己の感動をコアとして歩き始めるより方途はない。そこでは当然、聴衆の側からの不満を語り、自らの恣意性を貫徹すべきなのである。又、我々は自己の恣意性外他の何にも責任を負う事はできない。<聴衆の側としての自己の不満に責任を持ちそれを貫徹しえない者は日和見主義者である!>〉(*11)
浜野の“聴衆の側に安住するな”という主張に対し、渋谷は“聴衆である以上の責任はない”と反論。また、浜野が言う〈自分を語ろうとしてきたにすぎない〉というロック評論への批判を、むしろ積極的に展開していこうとする姿勢を示している。この浜野VS渋谷の論争は舞台を雑誌『フォークリポート』1971年夏号と秋号に移して続くのだが、お互いの主張を言い直しあうだけで話に結論はない。ただ、渋谷の次の言葉は、渋谷のロック批評の精神そのものだろう。
〈私の批評を構成しているひとつひとつの言葉は、ミュージシャンにとってのひとつひとつのサウンドにも相当するものなのだ。その音の良し悪しは、現在の段階ではそれほど傲慢な事は言えないが、少なくともそういった自覚なしでは、ロック批評を持続する事は、ある程度意識的であろうとする人間にとっては不可能であるはずだ〉
〈私は聴衆であり、一個のロックの愛好者である。そういう自己から出発する以外に方途はない。そして、多くのロック・ファンはそういう存在である筈だ。私の基盤はそこにしかないのである。そして、私が紙の上の批評から離れることがあっても、私がロック状況とかかわるのはそこからなのだ〉(*13)
渋谷は自分のロック批評は、ロックミュージシャンの音楽と同じレベルの表現だと見ている。だからこそ自信を持って聴衆側に留まれるのだ。音楽自体の表現は演者のもので聴衆側のものではないが、批評は演者と聴衆の対決であると。
ここから推測できることは、渋谷の『ロッキング・オン』創刊初期の動機は、浜野の言う演奏側へ転位する「場」という話への対抗として、聴衆として「紙の上」に留まり、そこで自己の体験に固執することで、自らのロック批評の正当性を示そうとしたのではないか。漠然と抱えていたロック批評への不満が、浜野との対話を通して思考がクリアになり、自分が進むべき道をはっきりと認識できた面もあるだろう。
かくして、この1971年の浜野とのやり取りを経て、渋谷青年は1972年の『ロッキング・オン』創刊へ向かうのである。
活字と電波を使ったロック伝道師としての渋谷陽一

渋谷陽一、岩谷宏、橘川幸夫、松村雄策の4人を中心とした『ロッキング・オン』の創刊物語は、渋谷と橘川が何度も書いているし、『評論集』の最初にも出てくるので、ここではくり返さない。むしろ書籍であまり触れられていないけども重要な話としては、渋谷が1973年10月からNHK第1のラジオ番組「若いこだま」(22時20分~23時)のDJに抜擢され、音楽好きの若者に影響力を発揮し始めたことだろう。
何しろ1970年代はまだレンタルレコード屋もYouTubeもサブスクもない時代。ロックを無料で聴く方法として深夜のラジオは貴重な情報源だった。とくにNHKは全国に電波が届くラジオ局で、ニッポン放送やTBSラジオのような東京キー局の番組を地方のラジオ局がネットして聞けるようになるのとは別種の存在感があった。
「若いこだま」は曜日ごとにDJも流す曲の傾向も違い、渋谷は土曜のロック担当DJとなる。当初はゲストに呼ばれただけだったが、そのDJと構成のマイナー性に驚き、番組の構成をやらせてほしいと立候補したところ、構成を担当していた苦学生の今泉洋がこの仕事がなくなると餓死すると言うので、渋谷はDJ役に回ってオーディションを受け、番組を今泉と一緒に作るようになったという。これにより、雑誌『ロッキング・オン』で文字情報を伝え、ラジオ番組で実際の音を届けるロック伝道師として、渋谷陽一の存在感は増していくのである。
念のため大まかな流れを書いておくと、渋谷は2年半「若いこだま」でロック音楽を担当した後、1976年4月11日から新たに始まった若者向け番組、NHK-FM「ヤング・ジョッキー」のDJに就任する。当初は日曜21時~22時、1977年度から土日20~21時放送に拡張する。土曜は新譜とリクエストを受け付け、日曜は好きな特集を放送していた。「若いこだま」の渋谷の後任ロックDJは大貫憲章だった。
さらに1978年11月23日からAMラジオ局の周波数一斉変更に伴う番組改定があり、「若いこだま」と「ヤング・ジョッキー」を統合しNHK-FM「サウンドストリート」が生まれる。渋谷はここで木曜・金曜のDJとなった。1983年4月からは金曜だけになり、代わりに4月10日からNHK-FM「FMホットライン」(日曜22~23時)のDJを担当。さらに1990年4月2日から「ミュージックスクエア」の月曜DJを1993年3月29日まで担当。さらに1997年4月5日からはNHK-FM「ワールドロックナウ」がスタートし、これは晩年まで続いた。2006年12月から毎年年末には渋谷陽一・大貫憲章・伊藤政則の3名によるスペシャル番組が放送されるのが恒例だったのをご存じの方は多いだろう。
ラジオと並行して、NHKの音楽テレビ番組「音楽達人倶楽部」(1991年11月21日~)や「ポップジャム」(1993年4月10日~)の構成を手掛け、オリコンチャート上位のグループに紛れて『ロッキング・オン・ジャパン』で見たようなミュージシャンを出演させるのを楽しんでいたふしがある。「ポップジャム」から離れるとテレビ東京系で音楽情報番組「JAPAN COUNTDOWN」(1998年10月3日~2020年)や音楽映像番組「PVTV」(2006年~2009年)を企画。前者の番組名は『ロッキング・オン・ジャパン』が主催する年越しフェス「COUNTDOWN JAPAN」につながっている。
このように、雑誌でまずロック批評を標榜する一方で、ラジオやテレビなど電波を活用して音を届ける道も開拓し、雑誌は読んだことがなくてもラジオDJとしての渋谷陽一なら知ってる人々を生み出す。この「マスメディアを巻き込んでいく」姿勢は、他のロック雑誌が追従できない一面だったといえる。
日本のロック批評に渋谷が持ち込んだ概念

さて、渋谷陽一の功績を改めて説明すれば、日本のロック批評の世界に2つの新しい概念を導入したことだ。新しい概念を人々の思考に定着させるのが批評家の影響力の指標になるとすれば、渋谷はそれを2度やった。
最も知られているのは「初期衝動」だろう。渋谷が発明したと言われるこの言葉、実際は他分野で使われていたのを音楽評論の場に持ち込んで意味を変節させた、が正確なのだが、ロックを志す人々の「言葉より先に存在する音を鳴らしたい欲求」を見事に表す言葉として、今では一般常識化している。渋谷以前にこれをロックに対して言う人はいなかった、というのが信じられないくらいだ。この言葉が出てくる最初期の事例は、渋谷の最初の著書『レコード・ブック』(1974-09-25、新興楽譜出版社)の「アメリカ/ブルース」の項目と、ステッペンウルフのレコードレビューである。
〈アメリカのロックは徐々にブルースから離れていった。イギリスの場合はブルースからハードなものへと、ある意味で音を純化していったが、アメリカのブルース・ロック・ミュージシャンはブルースから他のジャンルの音へと移行したという表現が近いようだ。その原因がどの辺にあるのかははっきりと言えないが、ブルースを自分達なりに表現する事によって発散されていた初期衝動から遠ざかったといえるような気がする。大人になったのか、それとも老いたのか〉(p12-13)
〈ロックの持つ初期衝動の痛快さ、景気の良さをそのまま曲にしたような“ワイルドで行こう”のヒットは重たくくらいニュー・ロックのスタートにふさわしいテーマといえる〉(p27)
「初期衝動」という言葉自体は何も説明されていないにも関わらず、すんなり読めてしまう通りの良さがある。似た言葉で「内的衝動」「芸術衝動」「音楽衝動」などがジャズやロックンロールに対して使われた事例は見つけたことがあるが、「初期」という言葉こそがロックのイメージと見事に合致しているように感じる。
もう一つは「産業ロック」。1980年代に、フォリナー、ジャーニー、スティックス、REO・スピードワゴンといった一連のグループを指す言葉として渋谷が発明したもの。言葉を知った誰もが直感的に「売れ線ロックをバカにした言葉だな」と思うはずだけども、それは半分間違っている。渋谷はことあるごとに商業主義を肯定しており、ロックが売れることをネガティブに語ったことはない。
〈実は商業主義をそのまんま単純に否定する気は全然ないですね。ロックという非常に商業主義的な音楽を成り立たせている一つの大きな要素だと思いますけれどもね〉(*14)
では渋谷のいう「商業主義」と「産業ロック」の違いは何かと言えば、〈アヴァンギャルド〉の有無である。アヴァンギャルド=前衛。軍隊用語で先頭部隊を意味し、転じて芸術の分野では未踏の地に足を踏み出す最先端の作品をいう。音楽という世界を何か一歩でも先に進めようとする試みがあるかどうか。産業ロックには歴史を進めようとする意志がなく、なんなら10年前に戻してしまう古めかしさがあり、渋谷はそこを問題視していた。
〈僕の持論として、音楽にはアヴァンギャルドな要素が絶対に必要だというのがある。これは別にキャバレー・ヴォルテール、スロッビング・グリッスルみたいな方向に走れということではない。むしろアヴァンギャルド・ミュージックとしてカテゴライズされる音の方が保守的であったりする事が多い。だからアヴァンギャルド・ミュージックではなくても何か新しい方法論を示してくれさえすればいい。そうした意味ではポール・マッカートニーやスティーヴィー・ワンダーは充分にアヴァンギャルドなのである〉
〈ひとつひとつのアヴァンギャルドな試みが積み重なって音楽は進んでいく。そんな努力がない限り、音楽は動脈硬化するだけである。僕にとって産業ロックとは、その動脈硬化なのである〉(*15)
これに対して、音楽が進化するというのがそもそも幻想ではないか、という疑問が湧く人もいると思うが、渋谷は〈コンテンポラリーな音楽というのは何がしか我々が感じ取れる感動の回路を確実に広げていっていると思うんだよね〉(*16)と説明している。聴衆側の聴き方の進化の話である。我々は新しい表現に出会って感動した時、既存の価値観で判断したのではなく、新しい価値観を自らに組み込む。そういう感動の回路を広げるのが新しい音楽の役割だと考えていた、かもしれない。
何はともあれ、「初期衝動」が思考回路に定着している人は、渋谷陽一以後の世界を生きているのだ。
ロッキング・オン文体とは何だったのか
自分が初めて雑誌の『ロッキング・オン』を読んだときに首を傾げたのは、例えばレッド・ツェッペリンのアルバム・レビューがあるとして、ツェッペリンの話が最後に数行出てくるだけの、ほとんどツェッペリンと関係ない話が続く原稿が載っている点だった。音楽をダシにして自分語りをしているにすぎない、と思わず批判したくなるこのフォーマットは、特定の書き手ではなく、雑誌のどの号にもほぼ毎回誰かの手によって載っていて、雑誌がこの書き方を推奨しているようにさえ感じられるムードがあった(近年は減っているようだが)。
この「自分語り」の量は一体何なのか。実はこれこそが『ロッキング・オン』の核なのだと気づいたのは、創刊号の巻頭宣言で〈技術は一切問わない。ただの感想文でない、自分を語りそしてロックを語った文章であれば経済的条件が許すかぎりのせていきます〉と書いているのを読んだ時で、1980年代になってからも渋谷陽一はそれを肯定している。
〈よく僕のやっている「ロッキング・オン」には、タイトルにレッド・ツェッペリンと書いてあるのに関係ない事ばかり書いてあるという投書がきたりするが、ミュージシャンがどうしたこうした、アルバムがこうだった、ああだったという事を書けばレッド・ツェッペリンに関する文章だと安心するのはナンセンスである。直接的な事が書いてなくても、最終的に文章がレッド・ツェッペリンに触発されたものであればいいわけで、主役は書き手なのだ〉(*17)
レッド・ツェッペリンについて直接的に書かなくても、ツェッペリンに触発されたものであればいい。この姿勢には驚かされる。他にこんな回答もある。
〈この雑誌にはひどく真面目なイメージが強いじゃない。その解毒作用があるんじゃないの? 逆に面白いと思う。ディスクレビューとかは書きにくいもので、それをエンタアテイメントとして成立させる方法論は数多くあって、その中の一つなわけ〉(*18)
個々の書き手の文章として見るとピンとこなくても、『ロッキング・オン』全体を構成する要素として見れば、息抜きとなるような役割を果たしていると、渋谷は考えていたわけだ。その場合、あくまで主体は雑誌なのである。
2000年代に2ちゃんねるで「ロキノン文体」と揶揄された自分語り多めのテキストは、「音楽について書け」と批判される一方、「情報が飽和したネットでは個人の体験談が貴重」と見直しも起きたりと、その評価は未だに定まっていない。ただ、この自分語りを肯定するのが日本一部数が多いロック雑誌である『ロッキング・オン』であるというのは、日本のロック批評に影響を与えているはずだ。
渋谷陽一とロック批評はその後どうなったのか

渋谷陽一が倒れる直前までずっと文章を書き続けていたことは『評論集』の2冊でわかる。ただ、渋谷陽一という書き手の第一章の終わりは、『ロッキング・オン』1982年2月号に書かれた「海には出たけど泳げない 音楽を文学的に語る事の不毛」にある。『ロッキング・オン』2025年10月号の渋谷陽一追悼特集にも再録され、『評論集』上巻にも収録されているこの原稿は、渋谷陽一のいつになく弱気な姿勢が印象的な、自らの選び取ったロック批評の方法論の限界を説くものだ。方法論とは副題そのまま「音楽を文学的に語る」こと。
〈優れた音楽批評は、優れた文学作品であり、それは当り前の事だが、優れた音楽作品ではない〉
〈音楽批評の質を決定するのは、音楽的ファクターではなく文学的ファクターである事に対する馴染めなさ、それがどうもすっきりしないのである〉
〈音楽を、文学的論理で語るのでなく、音楽そのものの論理で語る、それができない限り音楽批評はその自立性を獲得する事ができない〉
文学的に優れた批評のスタイルで音楽を取り上げて書いても、結局それは文学的に良いのであって、音楽的な論理で良いのではない。ここに納得がいかなくなった渋谷は、自らの「文学的」なスタイルに不毛を感じ、それを解決できないまま、自己の意識を「ロック批評家」ではなく「雑誌編集者」に置き換えることで開き直って生きていくことになった。1995年のインタビューで「海には出たけど泳げない」について答えている。
〈あれは僕にとってはひとつの区切りの原稿だし、大きな意味のある原稿ですけど、それは(今でも)同じですよね。今の色々な批評行為の持っている限界というのと同じようなところに、きっと僕もぶつかっていたんだと思うんです〉
〈要するに一種思想的にステップを踏んで、なにがしかの論理を構築して、そのうちに何かが見えてくるんだという発想。哲学においても批評においても、そういうのがある時期まであって、壊れたわけじゃないですか。ガラガラと。ポスト構造主義みたいなものが出てきて、もうそんなものはいらないんだというような発想になったちょうど区切り目に、きっと僕もあったと思うんです〉(*19)
それまで庶民・大衆の日常体験から立ち上がる吉本隆明的な批評理論をベースにしていた(?)渋谷が、1980年代にポスト構造主義的な視点に出会って、自らの立脚点が崩れたような感覚を当時受けたのかもしれない。自分の批評の構造が文学に依存していたこと。音楽を愛しながらも自分の批評が音楽に近づけていないこと。渋谷は自分の限界を知り、それを乗り越えることを文章ではついにできなかった。

その代わりに人生の転機となったのは1989年の雑誌『CUT』創刊である。現在は境界線が曖昧になっているが、初期の『CUT』は映画を軸としたカルチャー誌で、音楽以外の記事を中心とした雑誌だった。
〈編集者としての僕の転機は『CUT』ですよね。『ロッキング・オン』と『ロッキング・オン・ジャパン』を作って、洋楽のロックと日本のロックのメディアを作って、次にロックから離れたものを……、例えばロック評論家渋谷陽一がその看板を外して、どれだけのものが作れるかというのを試してみたかったんですね。凄く。自分の編集者としての能力というものを〉(*19)
ロックという音楽ジャンルの雑誌で成功した自分が、ロック以外のジャンルの雑誌を成立させられるのか。そんな課題を設定し、それを乗り越え成立させた時、雑誌編集者としての自負を強めることになったのである。自分は書き手である以上に雑誌編集者だったのだ、と。それはもちろん自分は根っからの経営者だったという自覚も大きくしただろう。
だから、『評論集』に収められた1982年以降のテキストは、渋谷陽一史における第二章、自分の書き手としての限界を知った後の文章であり、1970年代にレッド・ツェッペリンに代表されるハードロックについて執筆していた時の筆のノリはない。ただ、大衆の支持を得ることが第一の経営者視点を踏まえて、ナイン・インチ・ネイルズやグリーン・デイやエミネムを肯定する際の視点はかつてと違った興味深さがあり、1970~80年代の渋谷しか知らない読者にはむしろ下巻を薦めたいくらいだ。
『メディアとしてのロックン・ロール 渋谷陽一評論集』には、不満を爆発させてロック批評を始め、自らの限界に気づきながらも書き続けた渋谷陽一というひとりの人生が、たしかに残されている。ロック批評はここにある。
*1 『GURU』vol.6(1994-09-30、翔泳社)p146「GAMIN’ON vol.1 批評のないゲームには何が起こるのか?」(文=佐藤大)の渋谷発言
*2 渋谷陽一選、日本ペンクラブ編『ロック読本』(福武書店、1989-11-22)「解説」
*3 『ロッキング・オン』Vol.3/1973年冬号(ロッキング・オン)p21「特集ビートルズを葬り去る為に の前文もしくは後書き」(渋谷陽一)
*4 『ロッキング・オン』Vol.4/1973年4月号(ロッキング・オン)p2-3「まず最初にロッキング・オンについて」(渋谷陽一)
*5 『ロッキング・オン』1975年5月号p44「ツェッペリンのベストは一、二枚目だと十年一日のごとく言い続ける君達へ向けて──何故ロッキングオンか①──」
*6 『維新80’s』(1980-09、維新80’s社)p25「著名人インタビュー/渋谷陽一氏 八月二十日 電話にて」
*7 「音楽評論家・北中正和が振り返る、ラジオとロックンロールがもっとも熱かった時代「みんな子どもの魂を持っていた」」(2026-02-11)https://realsound.jp/book/2026/02/post-2298942.html
*8 『吉本隆明 自著を語る』(2007-06-30、ロッキング・オン)p122。初出『SIGHT』第26号/2006年1月号
*9 『國文學』1983年8月号(学燈社)p90-92「音楽雑誌の方法〈現代マスコミの現場から〉」(渋谷陽一)
*10 似た原稿「ロックの中の動と静 G・F・R」を同時期に『ミュージック・トラック』vol.4(1971-07頃、日本音楽出版)にも書いている
*11 『Then』2号(1971-04-05、オリジナルコンフィデンス)p25-29「ロック批評はどこにある」(文=渋谷陽一)
*12 『映画批評』1971年3月号(新泉社)p54-65「〈祭り〉なき祭りの場」(文=浜野サトル)。『都市音楽ノート』に「祭りなきフェスティバル」と改題し再録
*13 『フォークリポート』1971年秋号(1971-10-20、アート音楽出版)p76-80「何故書くのか──聴衆としての自己に執着しつつ──」(文=渋谷陽一)
*14 『Inner Cafe』No.6(1988-03-01)p12「インタビュー渋谷陽一 やっぱり商業主義じゃないんですか。」
*15 『週刊FM』12号(1982-05-24、音楽之友社)p46「渋谷陽一のパーソナル・ディシプリン6 産業ロックへの挑戦状」
*16 渋谷陽一『ロックミュージック進化論(新潮文庫)』(1990-10-25、新潮社)p164「ポップス化の流れの中で」(対談:山川健一+渋谷陽一)
*17 『音楽専科』1977年5月号p126-127「渋谷陽一のROCK'ON MK II③なぜ評論家は面白くない職業か パートII」。『音楽が終わった後に』に「音楽評論家に同情は禁物です」に改題し再録
*18 『Wood Stock』No.3(1982、ウッド・ストック編集部)p2「渋谷陽一・インタビュー『気分はメジャーだぜ!』」(聞き手=遠藤利明/円堂都司昭)の渋谷発言
*19 『文藝』(1995-11-01、河出書房新社)p296-297「鶴見済の無気力通信 今回の人・渋谷陽一」(聞き手=鶴見済)





















