岸田秀、土居健郎、小此木啓吾……“精神分析がベストセラー”の時代とはなんだったのか? 精神科分析家・藤山直樹に聞く

『ものぐさ精神分析』(中公文庫)などの著作で知られる心理学者の岸田秀が、5月25日に亡くなった。77年に出版され話題を読んだ同書は、80年代以降に流行した「ニュー・アカデミズム(ニューアカ)」の先駆けと言われることもある。また、70年代は土居健郎の『「甘え」の構造』(弘文堂)や小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(中公文庫)など、ほかにも精神分析の知見を活かした書籍がベストセラーになった時代だった。
それに対して、現在は精神医療と言えば投薬による治療が中心となってきており、長い時間をかけてセッションを行う精神分析は身近でないイメージがある。しかし他方で、昨年は東畑開人『カウンセリングとは何か』(講談社現代新書)が新書大賞に、松本卓也『斜め論』(筑摩書房)が紀伊國屋じんぶん大賞に輝くなど、精神分析をバックボーン(のひとつ)に持つ書き手の活躍も目立つ。
かつて精神分析の本がベストセラーになっていた時代とはどのようなものだったのか、ひるがえって現代とはどのような時代なのか。岸田秀の功績を振り返りつつ考えるために、『精神分析という営み』(岩崎学術出版社)や『落語の国の精神分析』(みすず書房)などの著作で知られる精神科医の藤山直樹氏に話を聞いた。
まず、岸田氏に対してはどのような印象を持っているのだろうか。
「岸田さんの本はおもしろいのでたくさん読みましたし、精神分析の本質をかなりしっかり掴んでいた論者だったと思います。もともと強迫神経症で、それを治すために精神分析を学んだといういきさつにもリアリティがある。主張としても、たとえば彼が言っていた「外部から自分について言われたことは、いったんすべて真に受けろ」という議論もそうだなと思わされるところがあります。精神分析というのは、結局のところ“他者が自分の気づいていなかった自分を見出す”というものですから。
ただ、岸田さんは実際に臨床(カウンセリングや治療)をやっていたひとではないので、私の立場からは“精神分析を学んだ知識人”という見方にはなります。元来、精神分析というのはフロイトが創始して弟子たちに受け継がれていった精神療法のことで、厳密には精神分析家が週4~5回クライエントとセッションを持ってはじめてそう呼ばれる。また、精神分析家になるのにも、実際に精神分析を一定期間以上受けることを軸とした訓練が必要になります。精神分析が盛んなヨーロッパやアメリカ、南米と比べてアジアの国々は精神分析家の数がとても少ないですし、日本では精神分析といっても具体的にどういうものかはあまり知られていない。岸田さんも、ここまで精神分析に近づいたのであれば、実際に精神分析を受けたり臨床したりしたらよかったのにと不思議に思う部分はあります」
知識人として精神分析の知見を活かして何冊もの本を書き、影響力を持った岸田秀。有名な『ものぐさ精神分析』には、メインの論考として「日本近代を精神分析する」「国家論」といった社会分析も収められている。臨床家から見て、これはどのように映るのだろうか。
「岸田さんの議論は、極論ではあるけども一理ある、という印象ですね。やはり精神分析はまず個人を治療するためのもので、それをどのように社会の分析につなげるかは難しい問題なんです。もちろん、精神分析の理論や概念を社会分析に使うことがダメというわけではありません。治療するなかで人間の心や人間性について突き詰めて考えてつくられた理論なので、社会分析にも使えるはずだとは思うんです。フロイト自身も優れた文化論をたくさん書いています。
岸田さんに話を戻すと、彼が書いていた「日本の鎖国していた時代は外的世界を知らないナルチシズムの世界で、そこから開国によって精神分裂病的になり戦争にまで突っ走った」という話はなるほどなと思いました。私個人としても、鎖国していた江戸時代の文化には関心があります。というのも、フロイトの議論はざっくり言うと「男と女がちゃんと交わって結婚して子どもをつくり、家族をつくって責任を持つことこそが人間のあるべき成熟だ」というところがある。でも、江戸は男女の人口比がかなり偏っていて、フロイト的な成熟が難しい社会だったはずなのに、そこから創造的な文化――浮世絵、寿司、落語、俳句など――を生んでいます。これを考えることは精神分析自体も問い直すおもしろい課題ではないかと」
精神分析を社会の分析に活かすことは難しいと同時に面白い試みでもある――。では、彼と近い時代に広く読まれた土居健郎や小此木啓吾といった著者のことはどう見ているのだろうか。
「土居先生や小此木先生は臨床もやっていた先達なので、岸田さんとはちがうリアリティがありますね。土居の『「甘え」の構造』は100万部以上売れたベストセラーですが、いま読み返すとかなりレベルの高いことが書いてある。これがベストセラーになるなんて、当時の日本の教養レベルは高かったんだなと思わされます。
この本は日本文化論として受け取られることもありますが、じつはそうではありません。受け身的に愛をあてにする心性である「甘え」は、たしかに日本の患者との臨床や日本文化について考えることで抽出されたものなのだけど、それは人間のもっともプリミティブな愛情のかたちであり、発達過程のメインストリームでもある普遍的なものなんだと土居さんは世界に訴えている。ある意味でフロイトに対する異議申し立てにもなっています。
小此木さんについては、著書からも多くを学びましたが、どちらかと言うと日本精神分析協会や日本精神分析学会といった組織を運営してコミュニティをつくった“オーガナイザー”という印象が強いです」
土居、小此木、岸田らの本が広く読まれた時代からもうすこし下ると、1992年には河合隼雄の『こころの処方箋』もベストセラーとなった。フロイトを中心とする精神分析に学んだ前者3名とはちがい、河合はフロイトと決裂したことで知られるユング派の心理学に学んだ。彼のことはどう捉えているのだろうか。
「河合さんは小此木さんとほぼ同世代で、ふたりは『フロイトとユング』(講談社学術文庫)などの対談本も出していますよね。対談を読んでいると、河合さんのほうがスケールが大きいなと思うところもあります。知っていることをすべてしゃべってやろうと力むことなく、相手にあわせてうまく包み込んでしまうところがあるという感じでしょうか。
彼は政治的な立ち回りにも長けていて、臨床心理士の資格をつくったり、スクールカウンセラーの制度を導入したりした貢献もとても大きい。最終的には文化庁長官にまでなるくらいで、ある種ヌエのようなところもあります。彼はユンギアンでしたが、もしフロイディアンだったら強い味方だったのにと思います(笑)」
精神分析をはじめとする精神療法の、日本におけるビッグネームたちの関係が見えてきた。しかしそんな伝統の一方で、現代の精神医療は“薬で脳神経の機能を調整することこそが治療”という見方が優勢になっているとも聞く。最後に、現代の精神医療観についてどう思うかも聞いた。
「たしかに“薬だけ出しておけばよい”という発想の精神科医は増えています。原因として大きいのは、日本の医療費が安すぎることだと私は思う。海外の精神科医は保険を抜きにすると初診で300ドル以上とったりするので、面接はひとり20~30分くらいかけるのがふつうです。これが日本だと1時間に8~10人くらい診ないと医者は食っていけない。だから“さっさと診て薬だけ出す”というスタイルが多くなってしまっているんです。
そもそも、患者が精神疾患かどうかを判定するための生物学的な指標はありません。たとえ脳神経の問題が一因だとしても、たとえば「血圧の数値がいくら以上だから高血圧ですね」というのとはちがう。患者は人間的事態として病を体験しています。海外の精神科医はそこにしっかり触れるような精神療法――精神分析にせよそれ以外の療法にせよ――の指導を専門医になる前に受けているのに、日本はそうとは言えない部分がある。日本の精神医療はガラパゴス的な状態にあると思います。
精神分析にひきつけて話を広げると、最初にも言ったように精神分析は“他者が自分の気づいていなかった自分を見つけてもらう”ものです。なので、現代人の「私の思っているように私のことを理解してほしい」「傷つきたくない」という傾向ともぶつかるところがある。いまは相談相手としてChatGPTが重宝される時代ですから。ただ、たとえば昨年ベストセラーになった東畑開人さんの『カウンセリングとは何か』は、精神分析の要素も部分的に入れつつ、読んだひとに「カウンセリングを受けてみたい」と思わせる良い本でした。本当の意味で“他者と交わる”ことが難しい時代だからこそ、精神分析が逆に重要になってくるんじゃないかと思っています」
たしかに、生きるうえで“傷つく”ことはできるだけ避けたい。しかし、そればかりでは“善く生きる”ことは難しいのかもしれない。そんなことまで考えさせられる話だった。

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