「推し活」や「消費」で世界を捉える危険性とは? 『新・消費論』林凌 × 谷頭和希が語り合う、言語化の罠

『新・消費論』が解き明かす消費の神話

 次々と生まれる「〇〇消費」という言葉は、ビジネスの把握に役立つ一方で自説を知的に見せる道具に過ぎないのではないか。『新・消費論 コト消費、性的消費、応援消費……誰もが語りたがる「神話」の正体』(中公新書ラクレ)を上梓した社会学者の林凌と、都市ジャーナリスト・チェーンストア研究家の谷頭和希が対談。80年代から現代までの〈消費〉を巡る語りの謎、大都市中心主義の偏り、推し活などの変容を紐解く。便利すぎる言葉に頼らず思考を深める重要性と、社会学・批評の歴史に潜む〈消費〉という神話を終わらせるための論点を語る。

マーケティングと社会学の「実態なき語り」への違和感

林凌氏(左)、谷頭和希氏(右)

――林さんが本書を書くに至った問題意識について教えてください。

林凌(以下、林):概ね3点あります。1点目は社会学に対する問題意識です。10年ほど前から、「この分野は世の中の何もかもを『消費』という概念(〈消費〉)で説明したがるきらいがあるのではないか」と感じていました。特に文化社会学や都市社会学といった分野では〈消費〉を使った議論が一時期盛んに行われましたが、この概念が何を指すのかについては必ずしも明瞭でないことが多かった。しかし、だとしたらこの概念は説明の語彙としてそもそも不適なのではないか。そうした状況への違和感が1点目です。

 2点目は、マーケティングやマーケター的なものへの疑問です。以前、消費財メーカーなどに消費トレンドや新たな消費者像を提案することを仕事とする調査会社で働いていたのですが、関連する文献や資料をいくら読んでも「結局、何も私たちは説明できていないのではないか」という思いがありました。一方で、企業側がなぜそうした語り口を求めるのかも理解はできます。バイヤーや店舗の担当者と商談する際、手っ取り早く説得力を持たせる「ネタ」が必要だからです。そうしたビジネス上の職能としての役割は分かりつつも、言葉として何の実態も表していないのではないか、と感じたのが2点目の理由です。

 そして3点目が教育現場での実感です。社会学や批評に興味を持つ学生と接する中で、彼らが「消費」を語ろうとすると議論が宙に浮いてしまう傾向にあることに気づきました。ですが、それは大人たちの使う社会学やマーケティングの語り口自体に原因がある。そうした若い世代へ、議論の最初の足がかりを示したいと考えたのが3つ目の理由です。

谷頭和希(以下、谷頭):メディア等でも「コト消費」と言った瞬間にそれっぽいことを語った気になり、知識人や専門家のように扱われる空気がありますよね。本書にある通り、「消費」という言葉は人々を分かったつもりにさせるマジックワードのようなところがある。私自身も消費者目線から流通や商業を分析してきたからこそ、その言葉の便利さと危うさを実感します。

林:私は学部時代に人文地理学を学んだ後、社会学に移ったのですが、その理由は〈消費〉を通じて都市文化や日本社会を語ろうとする社会学に対する違和感を解消することにありました。2010年代は1990年代から2000年代の社会学ブームの余韻が残っていた時期ですが、なにかその語り口に対し根底的な違和感があった。自分の体験やそれまで学んできたことからすれば、明らかになにか間違ったことを言っているような気がするわけです。

 しかし、それこそ東浩紀・北田暁大の対談本である『東京から考える』(2007年)が典型なのですが、そうした消費を通じた語り口が、当時ヘゲモニーを握っていたわけですね。であるなら、外野からそれを批判しても嫉妬としか受け止められないだろうから、その本丸に飛び込んで内在的に批判しよう、と思ったわけです。私は大学院の指導教員が北田暁大なのですが、経緯としてはそのようなものです。

 なので、私はこの10年くらいずっと消費者とか消費といった言葉の歴史を追いかけているのですが、元々これがやりたかったというよりは、この日本社会を語り直すための基礎固めをずっとやっているという自認があります。もともとは、それこそ谷頭さんがやられているような、郊外の商業施設やロードサイド文化に関心がある人間なんですよね。

なぜ「コト消費」は何かを語った気にさせるのか

谷頭和希氏

――谷頭さんは本書をどう読まれましたか。

谷頭:私は、本書を消費論や社会学の本であると同時に、「批評史」の本としても読みました。國分功一郎さん、東浩紀さん、宇野常寛さんといった論者たちは、みな「消費」的な事象をフックに論を展開してきた。でも「消費で語ること自体が一つの罠に陥っているのではないか」というのが本書の大きな問いですよね。批評に興味のある学生が東さんや宇野さんらの議論を真似して宙に浮いてしまう状況に対する、見事なアンチテーゼになっていると感じます。

林:それは私も書いていく中で意識した点です。例えば佐々木敦さんの『ニッポンの思想』(2009年)などはすぐれた内容だと思いますが、そこで描かれる日本の批評史は、どこか片側からしか語られていない印象がありました。本来、社会学と批評は出版市場において同じ地平で受容されていたはずなのに、今やそこが切断され、いがみ合っているようにすら見える。こうした歴史的繋がりが、いまからだと見えにくくなっているのではないか、ということを本書で言いたかったんです。

 これは、今思えば私が学生時代、批評をほとんど経由してこなかった点に起因しているかも知れません。それこそ学部が立命館の文学部なので、宇野さんのフォロワーのような人は周りに結構いましたが、私自身はサブカルチャー批評には当時ほとんど関心がありませんでした。批評を積極的に読むようになったのは、批評やサブカルチャー研究に関心がある学生が揃っていた現任校に就職してからで、なかば教員としての必要に迫られてでした。その中で、それまで勉強してきた社会学史と批評史を、消費概念を通じてブリッジすると面白いのではないかと思ったわけですね。

谷頭:だからこそ80年代がひとつの起点になるわけですね。もうひとつ、本書からは「安易な『消費』という言葉から離れて、消費ではない自分自身の言葉を見つけよう」という強いメッセージも受け取りました。

林凌氏

――林さんは、その辺りも学生とのやりとりからの影響はありますか。

林:そうですね。大学のゼミなどでも、学生が「コト消費」に代表される「〇〇消費」を使って物事を説明しようとすることは多いです。その言葉を使えば何かを説明できた気になれるからですし、なんならそれこそが社会学的な説明だと思っているフシすらある。なのでそこで、「その言葉を使うのはやめよう」と学生に指導することは非常に難しい。彼らからすれば、議論の前提をひっくり返されたように思うでしょう。

谷頭:若い世代にとって「コト消費」は使うだけで何かを説明した気になれるワードなんですよね。

林:ただ、この原因は大人側にあります。名だたる哲学研究者や社会学者が〈消費〉を軸に語っている以上、学生がそれを参照するのは当然です。しかし、その言葉を安易に使うことで逆に見えなくなるものがあるのではないか、というのが私の提示したかった論点です。

谷頭:本書でボードリヤールを丁寧に読み直している点も新鮮でした。「コト消費」を語る人のどれほどが原典を読んでいるのか怪しいものですが、本書を読んでボードリヤールは非常に複雑でスリリングな思想家であるということを再発見しました。

林:フランス現代思想と関連する分野において、なぜかボードリヤールを真正面から取り扱った研究は少ないんですよ。哲学的な文献学の対象にはならず、社会学の実証研究でも「大雑把すぎる」と敬遠されがちなところがある。ですが、学問的知見に依拠しつつ、その範疇には収まらない、まさに批評やマーケティングのような領域では、彼の議論は極めて強力なツールになりますし、今でも実は強い影響力がある論者です。

 しかも、彼の議論はその大雑把さゆえか、都合の良い部分だけが受容されてきた傾向にあります。実際、『消費社会の神話と構造』の結論部での論旨は、一般的なボードリヤール理解(=記号消費の専門家)だけでは汲み取れないものがあります。彼は記号消費の産業的生産を問題化したと同時に、誰もが〈消費〉を軸として物事を語りだすことの危険性も示したのです。誰もそこを突かないことへの疑問はずっと抱いていたので、今回の新書でしっかりと提示してみました。

四国に「消費社会」は存在したのか

――話は変わりますが、お二人とも四国にご縁がありますよね。

林:私は徳島の田舎育ちです。そう、我々、四国仲間ですからね。

谷頭:私は2年ほど前から3月まで東京と香川の2拠点で生活していました。四国仲間であることは押し出していきたい。

林:それで言えば、私がずっと思っていたのは「四国に社会学的な意味での消費者はいなかった」ということです。正確に言えば、大都市圏に縁がないローカルな地域には、1980年代~90年代に社会学者が言っていた「消費社会」なんて存在しなかった。だから大学で社会学の本を読んでも、自分と無関係な話をしているような気がずっとしてたんですね。私が社会学で勝負しようとしたのは、この感覚が背景にあります。

谷頭:80年代の社会学って、基本的に東京の渋谷や六本木の話しかしないですからね。

林:郊外と言っても八王子だったり。

谷頭:「消費」という言葉と「郊外」という言葉はすごく似ていると思っていて、「郊外」も強力なマジックワードなんですよ。東京の人が言う郊外と徳島の人が言う郊外は違うはずなのに、「郊外論」を語るだけで何かを分析した気になれる。私が『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』で書きたかったのも、まさにそこなんです。均質な「郊外」や「チェーン店」と一括りにせず、土地ごとの違いを見なければいけない。

林:『ドンなぜ』はそこが素晴らしかったと思います。宮台真司さんの『まぼろしの郊外』(1997年)などで描かれたのも、結局は都心や大都市圏の「郊外」なんですよね。「郊外」の「消費」を語ると、あたかも日本社会全体を語れるように見えたのがあの時代だったということでしょう。

谷頭:私は東京出身ですが、香川と二拠点生活をしていて思ったのは、現代の言論や社会学はすごい東京中心主義なんだということです。柳瀬博一さんも指摘されていますが、未だに鉄道社会の前提で語られていると感じます。車社会のリアリティが郊外論や消費社会論に全く反映されていない。

林:社会学における大都市中心主義の記述の歪みは、今こそもっと問われるべきだと考えています。東京的な意味で消費を通じてアイデンティティを形成できる人なんて、過去どれほどいたか。徳島に初めてユニクロができた時は、みんな喜んで並ぶわけですよ。それこそネット通販が普及していなかった時代の格差は凄まじかったわけです。

谷頭:親戚が香川だったので共感します。2010年代の香川でも、セブン-イレブンやスシローが初出店した時は車が大渋滞して3時間待ちでしたからね。カルチャー誌が取り上げる「東京でしか享受できないカルチャー」ではなく、東京以外の人々にとってのリアリティは、チェーンストアやショッピングモールでの消費です。今の社会学や批評の言葉は、その現実を拾い切れていません。

林:〈消費〉という都合のいいマジックワードで括ることで、あたかも全国みんなが同じ消費社会を生きているかのような「神話」が作られてしまう。東京に代表される大都市の局所的な現象でしかないものを全日本、あるいは世界へと接続してしまうことの危うさについては、もう少し社会学者は慎重になったほうがいいのではないのかな、と思います。

「反マーケティング」すら消費システムに回収される

――谷頭さんは本書の第二章(性的消費)をどう読まれましたか?

谷頭:SNS等で見られる「性的消費」を巡る不毛な対立も、本書を読むとそれぞれの消費観の違いとして俯瞰して捉えられるようになると感じました。

林:第二章はいささかセンシティブなテーマですが、80年代以降の批評・社会学史において上野千鶴子という存在がいかに特権的だったかを論じる上で必須でした。上野さんの特殊性は、マーケティング的な感性を極めて巧みに利用し、自らの立ち位置を確立した点にあります。フェミニズム的なアジェンダを、魅力的な枠組みのもと世に問い、パブリシティを獲得していく危うさとすごさがあった。そしてそれは、今見ると〈消費〉というテーマと深く結びついたものだったわけです。

谷頭:それは現代の「令和人文主義」的な書き手にも共通しますね。人文学的な知を扱いながらも、マーケティング的発想や時流の掴み方に長けている。上野千鶴子的な構造が繰り返されている感覚があります。

林:そうですね。1980年代以降の日本社会の特徴は、「我々自身がマーケティング的思考で動かなければならない」という強迫観念を抱いている点にあると思います。そして、論壇でのキャラ立ちや対立構図を求める発想と〈消費〉を用いた社会分析は、自らの卓越化を容易に可能にするという点において、非常に相性がいい。ボードリヤールが「神話」という言葉に込めたのは、まさにこの「他の可能性があるかもしれないのに見えなくなっている状態」のことです。みんながマーケティング的思考で動いているから、それ以外の世界が見えなくなってしまう。

谷頭:拙著『ニセコ化するニッポン』でも、都市が個別最適化のマーケティング思考で設計されている現状を書きました。一方で森岡毅さんのようなマーケターが神格化される反面、最近では「反マーケティング」的な反発も出始めていますね。

林:歴史的にマーケティング論は「いかにマーケティングは消費者の役に立つか」を説明する学問でもあったのですが、これはマーケティングが嫌われものであったことと裏表の事象でしょう。現代では「マーケティングをしなければならない」という強い強迫観念がありますが、これは同時に強い反マーケティング感情も生み出すこととなる。「売らなければならない」という強迫観念がマーケティング言説を生み出し、その反作用として「マーケティングのせいでこの社会は歪んでいるのではないか」という不信感が生まれるわけです。

 しかし、「反マーケティング」的態度を取ることもまた、「マーケティングが重要だ」という認識自体を共有してしまっています。これはボードリヤールが『消費社会の神話と構造』の結論部で語った、「消費社会なんて無くしてしまえ」という反逆すらも、結局は消費社会のシステムへと回収されてしまうという流れと同じ構造です。この構図の中で〈消費〉を中心に置く形で、半ば戦略的に議論が堂々めぐりになる。みんな何か新しい話をしているようで、既視感がある主張が繰り返されるわけです。

 実際私の理解では、高度な学術的議論はともかくとして、マーケター的な言説のレベルで言えば、マーケティングに関する主要な概念装置は1980年代にすでに出揃っています。ただ、「何か新しいものが始まった」と常に強迫的に述べる語り口が、表面的な装いを変えるだけで繰り返されているわけです。

谷頭:それは本書でも一貫して提示されている視点ですね。「SNS時代でマーケティングが劇的に変わる」とか、コロナ禍の「これからは体験消費だ」といった言説も、蓋を開けてみれば内実は80年代から大して変わっていなかった。

林:もちろん、マーケティングなどに実務で関わっている人からすれば、様々なことが目まぐるしく変わっている!と思われるでしょう。しかし、ここで重要なのは、にもかかわらず私たちが同じような言葉を使って現代社会を説明し続けようとしているということです。だからこそ私たちが考えるべきは、「何が変わったのか」を追うことよりも、「なぜこれほど同じ語り口が反復され続けるのか」という強迫性の方なのではないかと考えるわけです。

『動物化するポストモダン』がもたらしたオタク論の転換点

林凌『新・消費論 コト消費、性的消費、応援消費……誰もが語りたがる「神話」の正体』(中公新書ラクレ)

――第三章では「オタク」と「応援消費」の結びつきが議論されていますが、これを扱った理由は?

林:基本的に違和感を持っていたのは、「なぜオタクと推し活が同義語のようになっているのか」ということです。1990年代から2000年代のオタクには、「自らコンテンツを作り出す側」という自意識が旺盛でしたし、単なる消費者だとしても、カウンターカルチャー的な精神を装う傾向があり、お金をつぎ込むこと自体に絶対的な価値はありませんでした。

 しかし今や、オタク側までもが「金を落としてナンボ」という規範を受け入れている。その転機は2010年代にありますが、歴史的に見れば東浩紀さんの『動物化するポストモダン』(2001年)こそがこのオタク像の転換点だったと考えています。

 2000年代の東さんと大塚英志さんの対談を収録した『リアルのゆくえ』(2008年)は、今読むと笑ってしまうくらい二人の議論が噛み合っていないのですが、その原因はまさにここにあります。「社会にコミットして何かを変えよう」とする大塚さん的な旧世代のオタク像に対し、東さんは「そんな強迫観念自体が不要だ」と提示した。

谷頭:旧世代のオタク像に対し、哲学的な理論を用いて「ただ享受するだけの軽薄な消費者」を擁護したわけですね。その流れが宇野常寛さんや、近年の三宅香帆さんらの「推し」を軸とした言説にも地続きで影響を与えている。

林:さらに彼の議論で重要なのは、このオタク像を通じて私たちの生き方も論じた点でしょう。私たちは結局、「ぬるぬる消費者をやって、小さくハッピーに生きる」しかないのではないか。この宮台さん的な一種の開き直りの先にある逡巡が、その後おそらく彼の想像を超えて「物を買えばいい(=消費)」という論理に繋がっていく。このロジックをいち早く批評として提示したのが、濱野智史さんの『前田敦子はキリストを超えた』(2012年)でした。当時は奇書扱いもされましたが、今読み返すとまさに「推し活」社会を予言した書物だったと言えます。

谷頭:批評史の中でオタク像がどうアップデートされてきたかが非常によく分かります。ちなみに、本書で宮台真司さんや三宅香帆さんらを大きく取り上げなかった理由はありますか?

林:新書というフォーマット上、様々な枝葉を削ぎ落とす必要があったからです。おそらく〈消費〉を通じた批評・学説史というテーマであれば、宮台さんの活動は言うまでもなく、栗本慎一郎さんや西部邁さんらの社会経済学的な議論も検討する必要があったでしょう。こうした議論を捨象して、あえてスコープを絞ったのは、〈消費〉を巡る主要な系統の骨組みを明瞭に見せたかったからです。三宅さんに代表される現代の論者についても触れていないのは、それは本書の議論を踏まえれば自ずと分かることでしょうと考えているからでもあります。

 ただ、三宅さんに関して言えば、東さんが2011年以降に離れていった「オタク論」を、現代の文脈に位置づけ直したという点で、批評史的に明確に評価されるべき仕事だと考えています。逆に言えば、それは彼女の議論が東さんの枠組みの限界を受け継いでいるということでもあると思いますが。

震災以降の「社会の役に立ちたい」精神と「応援消費」

――第三章で「贈与のパラドックス」という概念を導入された理由もお聞かせください。

林:本書で仁平典宏さんがかつて『〈ボランティア〉の誕生と終焉』(2011年)で提示した、「贈与のパラドックス」の概念を用いたのは、東日本大震災以降の社会状況が背景にあります。震災以降、強迫観念的に「社会の役に立つこと」が求められる中で出てきたひとつの回路が「応援消費」でした。被災地支援と好きな作り手の支援が重なり、オタクと消費の結びつきが肯定的に評価されるようになったのです。

 かつてのオタク論には「オタクは社会の役に立っていない」という問いが常に付きまとっていました。旧世代は「オタク文化を通じて社会を変える」と背伸びし、東浩紀さんは「オタクは必ずしも社会の役に立たなくていい」と強迫観念を解除しようとした。しかし人は「自分は役に立っていない」とそう簡単に割り切ることができません。結果、「モノを作ることで貢献する」代わりに「モノを買うことで社会の役に立つ」という、より手軽な道が選ばれるようになったのです。

谷頭:「社会や誰かの役に立つ」というメンタリティは、2010年代から2020年代にかけて「推し活」の広がりとともに社会全体に浸透した印象があります。今やコアなオタクに限らず、誰もがうっすらと「推し活」をする時代になりましたよね。

林:興味深いのは〈消費〉の意味の変容です。1980年代の文脈において、消費行為とは「自己のアイデンティティ形成や他者との差別化」という論理で遂行されるものでした。実際、アイドルオタクやコレクターのように、大量に物を買う行動自体は昔から存在していました。かつてはそれを「推し活」とは呼ばず、自分の満足や自己を差異化するための手段として、まず「自分」が先行していたはずなんです。

 しかし現代では、近年の「利他」や「ケア」という言葉の流行とも表裏一体をなす形で、同じ消費行動であっても「他者へのコミットメント」が先行するようになった。動機の語彙が「自分のために」から、「誰かの役に立つこと」へとスライドしていったわけですね。これが、消費という行為が「後ろめたいもの」から「肯定されるべき良いもの」へと書き換わっていく背後にあるメカニズムです。

谷頭:「自分よりも相手が先に来る」というロジックですね。

林:ただ、見方を変えれば、それは「他者に貢献している自分」を確認して安心したいという、ひねくれた自己愛の表れでもあるわけです。もちろんそれ自体を否定するわけではありませんが、そうした言説の作動によって「推し活」が主流化していったと考えるべきでしょう。

 ここで注意すべきは、この言説の変化を私たちが現実の経済活動の革新的な変化として捉えがちだということです。「この社会で私たちは推し活を強制されている」といった学問的・批判的な見方にせよ、「推し活こそが消費の最前線」だというマーケター的・肯定的な見方にせよ、同じ罠に陥っている。数量の多寡はともかくとして、現象そのものは昔からあるのにもかかわらず、それをわざわざ「推し活」と名付けて、新たな消費現象だと考えてしまう我々の認知の方にこそ問題があります。

谷頭:なるほど。そうした罠からどのように脱出するのかが、最終章のテーマに繋がっていくわけですね。

林:これほど便利な概念の渦から抜け出すのは簡単ではありませんし、「消費と言わずに何と表現するのか」という批判も当然あるでしょう。ですが、まず行うべきは「消費を中心に世界を理解することが当たり前になっている」という前提自体をメタ認知することではないでしょうか。マーケターの語る「コト消費」などの言葉に胡散臭さを感じつつも、誰もそれを言葉にできない。本来それを批判すべき学者や知識人こそが〈消費〉というフレームに一番ハマってしまっているからです。なので、本書では学術的な体裁の中で小難しく批判するのではなく、この構造の危うさをわかりやすく提示し、議論の呼び水とすることを狙いました。

言語化のプレッシャーから離れ、立ち止まることの価値

谷頭:面白い本には「未知の知識を授けてくれる本」と、「うっすら感じていた違和感をバシッと裏付けて言葉にしてくれる本」の2種類がありますが、本書は後者ですね。「コト消費」という言葉のうすら寒さの正体が見事に言語化されていて、本当の意味での「啓蒙」だと実感しました。

 冒頭でもお伝えしましたが、本書からは「消費という言葉に頼らず、自分自身の言葉を持っていこう」という強いメッセージを感じます。消費語りに頼らず、自分の生活や街をいかに記述できるかという挑戦ですね。

林:同時に感じるのは、世の中の過度な「言語化」プレッシャーが、「〇〇消費」を濫造(らんぞう)しているのではないか、ということです。哲学者・古田徹也さんが以前日本経済新聞のインタビューで述べていましたが、「言語化」は、それ自体が使い回しの陳腐な表現を量産するリスクを孕んでいます。全員が常に優れた言語表現や現状考察をできるわけではないため、一見優れて見える安易な言葉が幅を利かせてしまう。

 だからこそ、自分の言葉を探すこと以前に、「言葉にする前に一度立ち止まる」ことが重要だと思うのです。「オタクは経済を回しているから素晴らしい」といった大義名分で自分の行為を正当化するのではなく、「この楽しさとはなんなのだろうか」とまず立ち止まる。SNSも含め、現代は誰もが過度に言語化と発信を強制される社会です。だからこそ「〇〇消費」のような便利すぎる言葉がバズワード化してしまう。

谷頭:「言葉にする前に立ち止まる」というのはすごく響く言葉です。強迫観念的に言葉にしなきゃと焦ることが、かえって消費のサイクルに飲み込まれていく。どこかで「楽しければいいじゃん」と言えるような、良い意味での「不真面目さ」が今の社会から失われている気がします。

林:我々の世界全体が、変に「真面目」になりすぎているんですよね。しかし、真面目であること、要領がいいことが、本当に優れたものを生み出すのかと言えば、学術や批評の世界では決してそうではない。本来、世の中の矛盾や自らの感情を説明する言葉は、果てしない逡巡の先にしか生まれないものでしょう。

 だからこそ、「コト消費」に代表される優等生的なマジックワードを使って要領よくレポートを書く学生、あるいは自らの問題意識を手っ取り早く言語化しようとする、研究者や批評を志す人々に対し、「一度立ち止まって自分の逡巡に向き合ったらどうか」と問いかけ続けたい。それが、この本に込めた一番の思いです。

■書誌情報
『新・消費論 コト消費、性的消費、応援消費……誰もが語りたがる「神話」の正体』
著者:林凌
価格:990円
発売日:2026年7月8日
出版社:中央公論新社
レーベル:中公新書ラクレ

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