【立花もも新刊レビュー】真紀涼介、荻原 浩、三浦しをん……優しいミステリーから仄暗いテイストまで、注目の新刊3選

発売されたばかりの新刊小説の中から、ライターの立花ももがおすすめの作品を紹介する連載企画。数多く出版されている新刊小説の中から厳選し、今読むべき注目作を紹介します。(編集部)
真紀涼介『勿忘草をさがして』(東京創元文庫)
なんて優しいミステリーだろうか。主人公は、とある理不尽な事情でサッカー部をやめたばかりの高校生・航大。時間をもてあましていた彼は、一年前に自分を助けてくれた老女に礼を言うため、自転車を走らせている途中で、美しい庭を手入れする大学生、拓海と出会う。探す家の手がかりは、ほんのわずかに老女とかわした植物の知識。誰より植物に精通している拓海は、その家の場所を導きだし、その後も、航大が植物の謎を持ち込むたびに解き明かし、美しい景色のみえる場所まで連れ出してくれるのだ――。
という、一種の安楽椅子探偵的な連作短編集。事件はいわゆる日常系で、派手さはないが、直面する人たちにとっては、心にまつわる深刻なものばかり。その一つひとつに、他人事ながらも丁寧に向き合ってくれる。植物を健やかに育て、花を美しく咲かせるためには、ただ水をやればいいわけじゃない、のと同じように、障害となるものをとりのぞき、生きるために必要な養分を得るためのヒントを教えてくれる。
もちろん拓海には「教えてやろう」という目線はない。その誠実なまなざしから、航大と、そして事件に関わる人たちが、勝手に受けとるだけである。でもそれこそが、優しさの連鎖なのだよなあ、と思う。人の心はすれ違うし、簡単にねじまがる。航大がサッカー部を辞めた経緯しかり、世の中には理不尽なことがあふれていて、くじけそうになることばかりだからこそ、些細な話にも耳を傾けてくれて、できることなら力を貸そうとしてくれる。そんな人たちが、そばにいてくれることが必要なのだと思わせてくれる。
続編となる『半永久の花束』も(単行本で)刊行されたばかり。読もう、と素直に思えるのは、派手さはなくてもこの小説にしみわたる優しさが、今の時代には必要だと感じるからである。
荻原 浩『陰謀論百物語』(文藝春秋)
『勿忘草を探して』とは読み心地は真逆だが、ある意味、対になる作品かもしれない。陰謀論のオンパレードな作品かと思いきや、陰謀論そのものについて語られるのは表題作だけ。だが、現代をシニカルに切りとった風刺の効いた作品集であることには変わりない。
表題作は、陰謀論者たちがそれぞれの信じる論を一人ずつ披露し、語り終えると蝋燭の火を吹き消していくというお話なのだが、いるよね、こういう根も葉もないことを信じている人、とただ嘲笑うだけではとどまらない、まさに百物語的なおそろしさがある。というのも、陰謀論者はみんな、自分が信じる(あるいは主張したい)論以外については、いたって冷静で、まっとうにツッコミを入れるのである。でも、自分の信じる(あるいは信じたい)論については、多少無茶でも押しとおす。とするならば、もしかして自分が信じている(あるいは説得したい)と思っていることもすべて、陰謀論なのかもしれないと思わされてしまう巧妙さが、本作にはあるのだ。
コロナ禍のマスク警察VSアンチマスクをしかけるレストランや、忖度しすぎて大事なことをすべて見誤っていく村。私たちの日常に潜む「わかるわかる」と「こういうのがいやなんだよな」の両方をあらゆる視点から詰め込んで、ごった煮にしたような短編が次々と繰り出されていく本作。ただカオスなだけじゃない、笑ったはしから自分にはねかえってくるような、やっぱり風刺が効いている。その鋭さ、たるや。荻原さんの筆力に圧倒されるためだけにも、読んでほしい。
三浦しをん『夜の恩寵』(集英社)
筆力に圧倒されるといえば、本作。「カリスマ」をテーマに書かれた連作短編集で、三浦しをんさんの小説のなかでもしっとり、そして仄暗いテイストが好きな方におすすめの一作だ。
「ヌチガミさま」と呼ばれる何かをおろして、近隣の人々を癒し、そしてお告げをする存在として崇められるようになった母。未来を予見する夢を見ることのできる一族の力が、二十歳を過ぎてから開花した女性。そしてその女性が夢のなかで産み、強大な夢見の力を授かったがゆえに、現実に「連れてきた」のだと主張されている息子。本作には、不思議な力で周囲を魅了する、あるいは惑わす、さまざまな人が登場する。
それこそがカリスマ性と呼ばれるものであり、力をもつことそれ自体より、相手が聞きたがっていること、肯定されたがっていることを、口にして、心をつかんでしまうことに、その魔性はある。つけこまれるのはだいたい、さびしい人たちだ。否、さびしさのかけらをもった人たち。つまり、この世界を生きる、ほとんどすべての人である。決して手に入れられない誰かに対する憧憬、あるいは現実に子をもつことのできない悲しみ、誰ともわかちあえない孤独。そうした心の隙間にすっと、すべりこんでくるのがカリスマと呼ばれる人たちなのである。
しをんさんの小説では「さみしい」より「さびしい」と表記されることのほうが多い。本作で、明瞭にさびしいという言葉を使われるシーンはほとんどないが、でも、そこはかとない寂寥感が本作には漂っていて、読んでいるうちに、心のどこかで共鳴し、吞まれそうになってしまう。呑まれたら、終わり。醒めない夢にとりこまれて、二度と目覚めなくなってしまう。わかっていても、ふらふらと誘われそうになってしまう、この本もまたカリスマの一種なのかもしれない。それでも人は、吞まれないための強さを自分で選択することもできる。そんな、光の輝きも本作には描かれている。どちらを選ぶかは、自分次第である。



























