『ばけばけ』小泉八雲は“伝説”をいかに改変した? 『教養としての最恐怪談』に学ぶ、怪談の歴史

『ばけばけ』小泉八雲は“伝説”をいかに改変した? 『教養としての最恐怪談』に学ぶ、怪談の歴史

 NHK「連続テレビ小説」第113作となる『ばけばけ』の放送が2025年9月29日より開始された。同作は小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)の妻・小泉セツをモデルとするが、原作はなくオリジナルとして制作される。セツをモデルとした主人公は髙石あかり、八雲をモデルとした夫役はトミー・バストウが演じる。

 八雲は紀行文、エッセイでも活躍したが彼の業績として最も良く知られているのは「怪談」だろう。八雲が日本に古くから伝わる口承の説話を記録・翻訳した「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな(のっぺらぼう)」などの怪談は日本で生まれ育った方の多くがご存じの事と思う。日本における怪談はそれそのものが一つのジャンルとして成立しているとも言えるほど活況を呈している。百物語は伝統的な日本の怪談スタイルだが、江戸の前期にはすでに成立している。ルーツは主君に近侍して話し相手を務めた中世の御伽衆に由来するとも、武家の肝試しに始まったとも言われているが、それらの説が正しければ室町時代には原型が完成していたことになる。現代では夏の風物詩でもあり夏の季語にもなっている。ユーモラスな話とのイメージが強い同じく江戸時代成立の落語でも怪談はネタになっている。『怪談牡丹燈籠』は幕末・明治に活躍した三遊亭圓朝の古典として今でも落語の演目としてしばしば取り上げられ、映画やドラマなどの映像作品でも何度か原作になっている。

 怪談は「談」とつくだけあって語りと相性がいい。現代において語りとしての伝統を受け継ぐのが「怪談師」である。人から聞いた実話の触れ込みで、怪談師が味付けして語る「実話会談」は怪談ジャンル限定の現代版噺芸だ。人気の怪談師は怪談愛好者の間で人気お笑い芸人のステージのような熱狂を持って迎えられている。『教養としての最恐怪談 古事記からTikTokまで』(ワン・パブリッシング)の著者、吉田悠軌氏は現代における第一人者の一人で、作家であると同時に怪談師としても活躍している人物である。

■神話にまで遡る日本の伝統怪談

 本書は「教養として」と銘打っているだけに怪談に対して三面記事的な民俗学の1トピックに留まらないアプローチをしている。章立てされているが最初の章は「古事記」のイザナミとイザナギの伝説からはじまっている。国産みの神であり、神産みの神である女神・イザナミは火の神カグヅチを出産して亡くなってしまうが、夫であるイザナギは愛するイザナミを黄泉の国まで追いかけていく。ところがイザナミは体中にウジがたかった恐ろしい姿に変貌してしまっている。愛する人が黄泉の国で醜い姿に変化している。これは確かに言われてみれば怪談である。吉田氏はこれらの要素がカシマさん、口裂け女、八尺様、アクロバティックサラサラなどの現代都市伝説のルーツになっているとも考察している。これらの現代都市伝説の怪異はいずれも恐ろしい異形の姿で描かれている。イザナミは変貌した姿を見られたことで「恥をかかされた」と激怒してイザナギを追いかけるが、現代都市伝説の怪異もその姿を見たものを追いかけてくる。人は先達から真似るし学ぶ。古代から受け継がれてきた恐怖のイメージが形を変えながら現代に伝わってきたという本書の説には無理が無い。

 また、吉田氏は平安時代末期に成立したとされる古典『今昔物語集』の語りの巧みさについても触れている。FOAF(Friend of a Friendの略。「友達の友達から聞いた」など体験者が聞き手直接の知人で無い場合全般を指す)は都市伝説の典型だが、『今昔物語集』には「誰かの誰かから聞いた話」という構造がすでに成立している。これは現代の実話怪談にも通じる。続編となる『教養としての名作怪談 日本書紀から小泉八雲まで』(ワン・パブリッシング)では一章丸々を割いて小泉八雲を取り上げているが、八雲もまた優れた怪談の「語り手」だった。『怪談』の「雪女」は雪女が登場するもっとも有名な物語で雪国のイメージが強いが、実はもとは東京府西多摩郡調布村(現代の青梅近辺)に伝わる伝説である。このような寒い土地のイメージが濃厚に伝わってくるのは伝説をリライトし、語りなおした八雲の語り口が絶妙だったからだろう。

 どこまでがオリジナルの伝承でどこからが八雲による改変なのかは本書の著者である吉田氏の推測が混ざっているが、有名な子育て幽霊の怪談について、吉田氏は八雲の改変の痕跡について指摘している。子育て幽霊は死後、墓の中で出産した女性が幽霊となって副葬品の六文銭を手に飴や団子を買って子供に与えるという日本全国に類話の存在する怪談である。これらの伝承に共通する結末で、最終的に子供は発見されて誰かの元に引き取られるのだが、発見の過程が伝承と八雲バージョンで異なる。伝承では子供を発見するのはあくまで第三者の行動だが、八雲の怪談では母の幽霊が飴屋の店主と近隣住民を手招きして引き連れて我が子を発見させている。幽霊に人格が存在しない伝承に対して、八雲バージョンの幽霊は意志や主体性を感じさせる。

 八雲はこの怪談について「愛は死よりも強い」という一文を付け足している。現代的な熱いヒューマニズム的思想が見える改変である。八雲は幼少期に父母に捨てられ、大叔母の元で育っているためパーソナルな思いも籠っているのだろう。吉田氏も指摘しているが八雲は現代人にも通じるフレッシュな感性を持った人物だったことが窺える。またこちらも吉田氏が指摘しているが、母が死後も我が子を守り育てようとする子育て幽霊の要素は映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023年)にも見られる。

 ところで八雲は元ネタとなった伝承を文章ではなく、妻であるセツの口承に拠っていたという。依拠するべき文章が無かったからではなく、「セツの言葉によるもの」に八雲がこだわったことが理由だという。『ばけばけ』のトキ(髙石あかり/セツがモデル)とヘブン(トミー・バストウ/八雲がモデル)がどのような関係として描かれるかわからないが、こういった史実を見る限りセツと八雲は私生活上だけでなく、文筆活動でもパートナーだったのだろう。『ばけばけ』は記事執筆時点でまだ放送開始されたばかりの段階だが、今後どのように二人の関係性が描写されるのか気になるところである。

■怪異と神聖 三面記事的要素に留まらない怪談

 伝説を紐解くとイザナミとイザナギの神話のように神と妖怪や怨霊、神聖なものと恐ろしいもの、異形の者は一体感を持つことがわかる。平安時代の豪族、平将門は斬首されたあと首だけになって空を飛んだ怨霊だが、神田明神に祀られる東京の守り神でもある。都に災害をもたらした菅原道真は恐ろしい怨霊であると同時に学問の神様として祀られてもいる。姫路城の伝承に登場する刑部姫は城を大規模改築しようとした池田輝政を呪殺した妖怪だが、米軍の焼夷弾を不発させて城を守った守り神でもある。妖怪であると同時に神聖な守り神でもある刑部姫は、古くから姫路城主にとって畏怖の対象だったのだろう。(ただし、「Fate/Grand Order」にプレイアブルキャラクターとして登場する刑部姫は「引きこもりのオタ」という伝承とは似ても似つかないキャラクター像で登場する)

 本書から見えてくるのは怪談の三面記事的と単純には断じられない日本の歴史である。「怨霊」「呪殺」といったトピックも扱われているが、日本中世史を専門とする清水克行氏の『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』(新潮社)によると「呪うぞ」は中世日本における脅しの決まり文句だったようだ。太平洋戦争中は密教の僧侶を中心としたフランクリン・ルーズベルト大統領呪殺計画が存在したとの説もある。呪いが効果は発揮したのか定かではないが、ルーズベルトは戦争末期の1945年4月12日に突然の脳出血で亡くなっている。だからこそ中世人は呪いを恐れ、怨霊を神と崇めた。これら怪談の主要構成要素は「教養として」語られるにふさわしい我が国の歴史、文化の一部分である。『教養としての最恐怪談』のタイトルに偽りないシリーズである。

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