アフリカ文学の傑作『雨雲の集まるとき』を刊行するために自ら出版社設立ーー雨雲出版・横山仁美に聞く、ベッシー・ヘッドの真価

横山仁美に聞く、ベッシー・ヘッドの真価

この小説は一人でも多くの人に読まれるべき

アフリカを訪れた際の思い出とともに語ってくれた。

――マカヤを受け入れてくれた老人ディノレゴのように、「知識を雨のように降らせてくれる」ギルバートのような存在を必要だと感じている人もいる。だからこそ、そのコミュニティにちゃんと溶け込んで、そこで生きる人たちの生活を知ることが、まず大事なんだろうなと思いました。

横山:人は、経済的合理性だけで生きているわけじゃない。ミレット(キビなどの雑穀)がいくら換金作物として優れていても、差別される「部族」がつくり食べるものだからと、なかなか手を出してくれないということもある。そういう文化的・歴史的背景を知ったうえで取り組まなくてはいけないことを、決められた期間でプロジェクトを達成するため、無視してしまうケースは多々ありますからね。アパルトヘイト政策を批判するだけでなく、そうした、普遍的にくりかえされる人間社会のありようを描き出しているこの小説は、一人でも多くの人に読まれなくてはいけないと、ずっとずっと、考え続けていたんです。

――でもずっと、どこの出版社にも、断られ続けてきた。

横山:足掛け20年以上になりますね。どの出版社に持ち込んでも「なにも賞をとっていないんですよね」とあしらわれ、こんな本を出しても売れない、市場のことを何も知らない素人、という扱いを受け続けてきました。私も、国際協力系の仕事を本業にしていたので、そればかりに時間を割くことができず、心が折れかけていたのですが、2023年にある編集者の方に「なんで出版したいんですか?」って聞かれたんです。そこで初めて「なんでって……なんで?」と我に返って。

――理由なんて考える余地もないほど「出版しなきゃいけない」という想いが強かったんですね。

横山:そうなんです。改めて「なんで」を考えたとき、この小説は一人でも多くの人に読まれるべきで、現代社会に生きる人たちにこそ必要とされるはずだ、という根っこの想いに改めて気づかされました。出版社に依頼して出版し、流通に乗せてもらうことが必須であるという、手段の部分への執着から解放された瞬間でした。さらにその編集者さんに「自分で出しちゃえばいいんですよ」と言われ、目からうろこが落ちたんですよね。むしろどうして、ベッシー・ヘッドのことをなにも知らないまま軽んじてくる人たちに預けなきゃいけないと思い込んでいたのだろう、と。

――それで、雨雲出版をたちあげるに至ったわけですね。

横山:ベッシー・ヘッドをいちばんよく知っていて、この小説の価値をいちばん理解しているひとりである私がやるべきなのだと気づきました。資本力や知名度、販売網もすべて大手に比べれば劣るけれど、自分の判断で好きなように売ることができる今は、とても幸せです。ただひとつ、忸怩たる想いを抱えているのが、NDC区分のこと。

――「900 文学」「910 日本文学」といった図書館で広く使われている分類法ですね。

横山:日本文学は、基本的に日本語で書かれた文学のことを示します。つまり、アフリカ文学はスワヒリ語をはじめとするアフリカで使われる言語で書かれた文学のこと。ですが、ベッシー・ヘッドの作品は他の多くの南アフリカ文学と同じく英語で書かれているんですよ。彼女が生きていたのは、アパルトヘイトが撤廃される前の時代。南アフリカで彼女の作品を刊行すれば、よくて軟禁、投獄されて拷問を受けていた可能性もあります。

――アフリカの言語で書く作家自体が、そもそも少なかったということですね。

横山:そんな彼女の文学を、英米文学として分類せざるを得ないことが、私には悔しくてたまらない。南アフリカを植民地化していた旧宗主国の文学として分類されているなんて、とうてい、現地の関係者には伝えられないですよ。

――いろいろと理由はあるのでしょうが、作家の背景にかんがみて分類できる方法があるといいですよね。

横山:そもそも文字文化がなく、口頭で伝承されていることが多いため、文学作品は旧宗主国の英語・フランス語で綴られるケースも多かったんです。日本人はどうしても、言語と民族と国籍が一致するものと考えがちですが、南アフリカだけでも公用語は12言語。多言語、多文化がまじりあって生きている人たちの現実も、この小説を通じて知ってもらえたらいいなと思います。分類法についても、やわらかに、提案していけたらいいですね。ベッシー・ヘッド作品のすばらしさを広く伝えていくうえで、作品を売る以外のステップも進めていきたいな、と。

生前のベッシー・ヘッドの写真も。

――今後、別の作品を刊行される予定はありますか?

横山:できたらいいなと思っています。でもまずは『雨雲の集まるとき』を一人でも多くの人に読んでいただきたいです。過去には日本でも三部作とも呼ばれるベッシーさんの長編小説のうち、本作以外の二作が刊行されているのですが、なぜかこの作品だけ、未訳のままだったんですよ。いちばん、読みやすいと思うんですけどね。今作は、解決しない問題を多く抱えたまま、明確な答えは導き出されないまま、それでもその先の未来を生きていくマカヤの希望を感じさせるラストを迎えている。他の作品はもうちょっと、尖っているというか、読み手に問いかけてくるものが深く、強いので。

――でも『雨雲の集まるとき』も、一文一文に意味がこもっていますよね。差別的な価値観や文化をはじめ、社会構造がいかにして生まれ、定着していくのかが、ささいなセリフ一つとっても伝わってくる。簡単には読み飛ばせないし、一度や二度、読んだだけでは受け止めきれないものが行間にあふれていて、何度も折に触れて読み返そうと思いました。

横山:そうですね……。訳すときも、なぜその単語を選んだのか、よくよく耳を澄ませて考えないと、聞き逃してしまうんですよね。表面的な意味をとらえただけでは、物語を通じてベッシーさんが本当に伝えたかったことに迫ることができない。読み返しては「これは解釈が違う!」と自分の誤りに気づいて、頭から訳しなおすことのくりかえしでした。一言でも意味がずれると、そのあとの物語すべてが、方向性を間違えてしまうので。そう思うと、出版までに時間をかけられたことは、よかったのかもしれないなと思います。ベッシーさんは48歳で肝炎を患い、48歳で亡くなりました。私も同じ48歳になる今年、この本を刊行できたことは、一つの巡り合わせだったのかもしれない、と。

■書誌情報
『雨雲の集まるとき』
著者:ベッシー・ヘッド
翻訳:横山仁美
価格:2,970円
出版社:雨雲出版

関連記事

リアルサウンド厳選記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる