航空史上最悪の日航123便事故の“真相”ーージャーナリスト・米田憲司に聞く、40年目の“真実”

航空史上最悪の日航機事故の“真相”

 1985年8月12日に起きた、日航123便事故。123便は羽田空港を離陸した32分後に群馬県の御巣鷹山に墜落し、乗客乗員520人が犠牲となった。発生から40年が経過した現在でも、日本の航空史上最悪の事故として語り継がれている。

■さまざまな原因が流布される理由

 この事故をめぐっては、数々の疑惑が取り沙汰されてきた。航空事故調査委員会による事故調査報告書は事故原因を「ボーイング社の修理ミスによる、後部圧力隔壁の破損」と結論づけたが、この結論に対してはさまざまな方向から異論が出されており、今もって他に事故原因が存在するという説も唱えられている。また「123便はミサイルによって撃墜された」とする主張なども存在しており、ネット上にはデマや陰謀論めいた「原因」も転がっている。

 この123便の事故について、新たな方向から光を当てた書籍が『日航123便事故 40年目の真実 御巣鷹の謎を追う 最終章』(宝島社)である。著者は『赤旗』の取材班リーダーとして40年前に事故現場への取材を敢行したジャーナリスト、米田憲司氏。米田氏は事故取材をきっかけに123便事故について関心を持ち続け、1995年に米軍の準機関紙『スターズ・アンド・ストライプス』に掲載されたマイケル・アントヌッチ中尉の証言を読んだことで再び本格的調査に着手。30年にわたる調査・取材を経て、123便事故をめぐる数々の疑惑について結論を見出し、「真の事故原因」を推測した。その経緯と結論をまとめたのが、『日航123便事故 40年目の真実』なのである。

 本書では事故発生直後からの米田氏の足取りや取材の様子に始まり、なぜ事故現場の特定に11時間という時間がかかったのか、ボイスレコーダーの調査は正確だったのか、調査委員会はなぜ「後部圧力隔壁の破損」を事故原因としたのか、そして真の事故原因とはなんだったのか、といった数々の疑問に、取材で得られた結果を基に答えている。では、本書の取材の経緯や、執筆に至った問題意識はどのようなものだったのだろうか。著者である米田氏に直接伺った。

■8月12日夜に何が起こったのか

──これまでの取材・執筆の経緯を教えてください。

米田:自分は、事故当初から墜落現場で取材しました。8月12日の夜は墜落現場について誤報が続き、翌朝になってようやく長野県警のヘリによって墜落現場が確認されています。その際、自衛隊の捜索がなぜ遅れたのかという疑問が残りました。

 そういった疑問を抱えたなか、1995年に米空軍のアントヌッチ中尉が、事故直後にC-130輸送機のナビゲーターとして事故現場の位置を正確に確認しており、さらに座間の基地から米陸軍のヘリが生存者確認のために飛んでいた事実を明らかにしました。これは事故から2年後にまとめられた、事故調査報告書には触れられていない事実です。

──米軍が先行して事故機の位置を突き止めていたというのは、自分も知りませんでした。

米田:そういった事実を知ったことで、事故当時から抱いていた123便事故全体に関する疑問を、再取材によって明らかにしたいと考えたんです。その5年後には内部告発によって123便のボイスレコーダーの内容をスクープし、事故から20年後の2005年には『御巣鷹の謎を追う 日航123便事故20年』を刊行しました。

──本書の前作に当たる書籍ですね。

米田:この本では、事故調査報告書が米国の国益に忖度して、矛盾や疑問の多い内容となり、事故再発防止という目的すら果たしていない点を明らかにしました。ただ2005年時点では、真の事故原因が何かわからなかったんです。その後、航空宇宙技術研究所の空気力学部長である遠藤浩氏への取材で、123便には機体後部の歪みとダイバージェンス(航空機の垂直尾翼が空気によってねじれ、制御不能となり破損する現象)が発生していたことがわかりました。今まで蓄積してきた資料を基に事故原因に関する推測を重ね、世に出せるタイミングになった……ということが、今回書籍を出版した理由です。

──40年を経て、ようやく納得のできる事故原因が推測できたわけですね。取材中に困難だったことはありますか?

米田:困難といえば、1995年以降の取材はすべて個人で実施した点でしょうか。予算にしても時間にしてもあらゆる条件が厳しいものでしたが、必ず真相究明はできると確信していました。もちろん自分一人で成し遂げたことではなく、航空関係者や事故現場の捜索にあたった関係者、事故調査に関連した内部告発者の協力があってこそ、事故全体の真相究明につながったと思っています。

■4人も助かった奇跡の山

──取材をしていく中で、印象深かった証言はありましたか?

米田:自分が加わっていた取材班は、事故当時は上野村の堀川さんというお宅に宿舎を提供してもらっていました。状況が変化したことで取材班が上野村から遺体搬送先の藤岡市に移ることになった時、お世話になった堀川守(たかし)さんが別れの挨拶の際に「御巣鷹は520人が亡くなった恨みの山というが、村の人間にとっては4人も助かった奇跡の山だと思っている」と話してくれたことが印象に残っています。時を経れば国民の多くは忘れてしまうかもしれませんが、そこで暮らす人はこの事故を忘れることができない。そんな思いが込められた言葉だと思います。

御巣鷹山にある慰霊碑(photolibrary)

──事故の経緯や「自衛隊による捜索から事故現場特定までの時間の長さに関する疑惑」「アントヌッチ証言の内容」「調査報告書の内容と生存者の証言の食い違い」「ボイスレコーダーの内容に対する航空関係者の解釈と調査報告書のズレ」など、数々の疑惑に関しては本書でおよそ理解できるようになっています。それらに関しては読者の方に読んでもらえればと思いますが、一方で米田さんの視点から見て、事故当時の自衛隊の動きなどで評価できる点はありますか?

米田:事故の直後に、南房総市の峯岡山にある自衛隊のレーダーサイトが、123便が消息をたった場所をかなり正確に割り出しているんです。その後、中部航空方面隊の司令官が戦闘機のスクランブル発進を要請して、百里基地からF-4ファントムを飛ばして偵察させています。この一連の流れは、この時点での動きとしては相当素早く反応していますし、当時やれる範囲の中では迅速かつ正確に対応していたのではないかと思います。ただ、その後は長野県側に墜落したという誤報が続き、捜索隊も報道も振り回されたという経緯もありますが……。

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