『チ。―地球の運動について―』の結末はなぜわかりにくい? 「迷信との戦い」を超えた先にある景色

『チ。』の結末はなぜわかりにくい?

最終章に示されたテーマとは

  最終章はそれまでの物語から一変、架空の国ではなく1468年のポーランド王国が舞台となる。そしてそこにはなぜか作中序盤で命を落としたはずのラファウ、もしくはラファウにそっくりな同姓同名の人物が登場する。

  彼はアルベルトという少年の家庭教師を勤めており、勉強の意味を見失って悩むアルベルトに対して、「知が人や社会の役に立たなければいけないなんて発想はクソだ」と語る。知的好奇心をなによりも尊重する口ぶりは、第1章のラファウが成長して現れたかのようで、感動を誘われるだろう。

  だがラファウはこの後、地動説の共同研究を拒んだアルベルトの父を殺害する。そしてその現場を目撃したアルベルトに対して、「この世の美しさの為なら、犠牲はやむを得ない」と、自らの行為を正当化するのだった。

  重要なのは、このアルベルトが「アルベルト・ブルゼフスキ」という実在の人物をモデルとしていること。史実では、この人物は地動説の提唱者であるコペルニクスの師匠とされている。すなわち同作の物語が、ここにきて現実の歴史と接合されたということだ。

  ただし、作者は「ラファウたちが守った“知”の萌芽が現実の歴史につながった」という単純な描き方はしていない。大人になったアルベルトはラファウの弟子としてその知を継承するのではなく、別のやり方で世界の美しさに迫ろうとするからだ。

  だとするとそれまでの物語がすべて無に帰すため、あまりにニヒリスティックな結末となってしまうが、それを回避するところに同作のすごさがある。物語のラスト、アルベルトは町を歩いている最中、とある家の住人が郵便物を受け取っているところに通りかかる。彼はそのまま素通りしようとするが、「地球の運動について」という言葉が耳に入り、そこから何かをひらめきそうな予感が漂う。

  郵便物は「ポトツキ」に宛てられたものらしいので、死に際のドゥラカが伝書鳩に託して飛ばした手紙がここに届いたとも解釈できるだろう。

  しかし「P国」のラファウとポーランド王国のラファウは必ずしも同一人物とは言えないため、最終章はこれまでの物語とは“別世界”の出来事とも考えられる。つまりラファウからオクジー、ドゥラカへと至る物語は、現実の歴史につながったとも、つながっていないとも言える……。作者はあえてそこをぼかして描くことで、想像の余地を与えたかったのかもしれない。

  作中後半から最終章の展開は、一見わかりにくいものの、それは前半よりも深いテーマに踏み込んでいるせいだ。前半は“正しい知”の立場に立って、非科学的な迷信を否定する物語だったが、後半では絶対正義の知も倒すべき迷信も存在しないことが明らかにされた。その変化が、盲目的にラファウに従うのではなく、偶然耳にした手紙の一節から影響を受けるアルベルトの描写に象徴されている。

  そしてこれは『チ。―地球の運動について―』という物語自体が読者に与える影響を示唆しているようにも見える。すなわち読者はアルベルトのように、作中で描かれた歴史を鵜呑みにするのではなく、疑念を持ちながら知に関わっていくことを求められているのではないだろうか。

  もちろんここで示したものは、あくまで1つの解釈であって真理ではない。自分にとってどんな意味をもつ物語なのか、この機会にあらためて同作と向き合ってみるのもいいかもしれない。

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