佐々木敦 × 円堂都司昭が語る、坂本龍一との距離感 「矛盾した存在をどう受け止め、どう考えるかが重要だった」

それぞれの坂本龍一との出会い

円堂:これも本に書かれていますが、佐々木さんがYMOを初めて知ったのはNHKテレビのニュース番組だったとか。
佐々木:そうです。僕の実家は洋品店で、親が家で仕事していたんです。ある日、学校から帰ってきたら親がテレビを見ていて、ニュースで「YMOというグループが海外で話題になっている」と報じていて。僕は中学生だったんですが、その頃は音楽が好きなわけではなく、オフコースやさだまさししか聴いてなかった。そのニュースを見たときも「変わった人たちがいる」くらいの感じだったのですが、ずっと鮮明に覚えていたんですね。
円堂:僕が初めてYMOを見たのは、おそらく東京12チャンネル(現テレビ東京)でやっていた「ステレオ音楽館」という番組だったんです。その番組はDevoの武道館ライブを放送したり、よくテクノポップを取り上げていて。ヒカシュー、PLASTICS、P-MODELのいわゆる“テクノ御三家”もそこで知ったんだと思います。あとは番組のCMで高中正義のフュージョンが流れていて、そういうパースペクティブのなかでYMOを知りました。同時期にプログレッシブロックやハードロックにも興味を持ち、ニューウェイブとオールドウェイブを一挙に聴いてましたね。
佐々木:僕らの世代(1960年代前半生まれ)は、そういう聴き方をしていた人が多かったかもしれないですね。音楽に目覚めた頃、リアルタイムとしてはパンク、ニューウェイブ、テクノで、そこから遡って古いものを聴いて。“村上龍を読んだ後、夏目漱石を読む”みたいなところは僕にもあったし、YMO自体もそういう存在だと思うんですよ。細野晴臣によって、はっぴいえんどとYMO、70年代と80年代が二重写しになっていたので。
円堂:そうですね。僕は当時、プログレとテクノポップの両方が好きだったんですが、Devoは“退化”という意味じゃないですか。
佐々木:“De-Evolution”ですからね。
円堂:それよりも古いプログレ(progressive rock)は先進的、進歩的というのが面白いなと。Devoを通してYMOも含め、従来の進歩史観を批判、否定するものとしてテクノ、ニューウェイブをとらえていたところがあります。
佐々木:坂本さんがやられていた「サウンドストリート」(NHK-FM)の影響もありますね。僕はラジオを聞く習慣がなかったんですが、「サウンドストリート」は聞いていて、そこでトーキングヘッズやブライアン・イーノを知って。それが自分の音楽的な志向の一因になっているのかなと。僕は「サウンドストリート」と「FOOL’S MATE」(クラウトロック、ニュー・ウェイヴ、ポストパンクなどを紹介していた音楽雑誌)の申し子かもしれない(笑)。
円堂:NHK-FMはかなり今となっては貴重なライブ音源なども放送していましたよね。坂本龍一、高橋幸宏、矢野顕子がゲストが出演したジャパンの解散コンサート、クラフトワークの来日公演など、エアチェック(録音)して愛聴しました。
佐々木:そうなんですね。円堂さんは坂本龍一さんのアルバムのなかで、どれがベストなんですか?
円堂:それはハッキリしていて『音楽図鑑』です。坂本さんのいろいろな側面がわかりやすく出ているし、聴きやすいですからね。3枚選ぶとしたら『音楽図鑑』『千のナイフ』『左うでの夢』ですね。
佐々木:僕の周りでも、坂本龍一さんの作品をずっと聴いてきた人は『音楽図鑑』を挙げることが多いですね。おそらく投票しても、『音楽図鑑』が選ばれるのではないでしょうか。僕にとってのベストの1枚は『B-2ユニット』で、3枚となると『左うでの夢』『千のナイフ』ですね。どうしても初期の作品になってしまう。
円堂:僕は『ビューティ』までは素直に聴いていましたが、『ハートビート』以降は首をひねることもありました。
佐々木:これは円堂さんの本にも書かれていることですが、坂本さんはいい意味で芯がない方だったんじゃないかなと。影響をめちゃくちゃ受けやすい人だし、リリース順に聴いていくと、どんどん変化しているのがわかる。変化すること自体が坂本龍一のアイデンティティだと考えないと、どうしても「この時代はよかったけど、この時期はよくなかった」となってしまう。
円堂:なるほど。
佐々木:この本を書いていて、坂本さんの変化を辿っていくのは僕自身もとても面白かったんです。本を読んでくれた人から「90年代のパートが面白い」と言われることが多いんですが、90年代は坂本さんがJポップに挑戦していた時期だけど、思ったようには売れなくて、そこに小室哲哉が現れて。これも“語録”にも出てきますが、小室さんとの対話のなかで坂本さんは「(小室が)日本人の耳をね、教育しちゃったとこがあって。」と発言しているんですね。それは坂本さんの本音というか、どうしても言わずにいられないことがふと漏れたような気がしているんです。ちょうどその頃は僕が音楽ライターとして、しょっちゅう坂本さんにインタビューをしていた時期なんですけど、彼の葛藤みたいなものは伝わってくるわけですよ。そのなかで『energy flow』がヒットしてしまったり、坂本さんがもっとも揺り動かされた時代だったのかなと。これは本を書きながら感じたことでもありますが、坂本さんの多面性、矛盾した存在であることをどう受け止めて、どう考えるかが重要だったと思いますね。
円堂:若い頃と年齢を重ねた後では当然、考え方や行動も変わってきますからね。晩年の坂本龍一の活動には、「若い頃の坂本龍一が知ったら反発するんじゃないか?」という場面も多かったと思うんです。僕が『ハートビート』以降のアルバムを屈託なしには聴けなくなったのも、そういうことなのかなと。

佐々木:『坂本龍一語録』のなかにも、そういうことが象徴的に出ている発言が取り上げられていますね。武満徹さんに対する態度もそう。若い頃の坂本さんは「武満がやっていることはジャポニズムだ」と批判していたし、仮想敵みたいに捉えていたわけですよ。ところがある時期から坂本さん自身も武満の偉大さを理解しはじめて、ある部分を受け継いだところもあったんだと思います。
円堂:変化ということでは、『坂本龍一語録』のなかに入れられなかった言葉もいくつかあって。その一つが『村上龍と坂本龍一 21世紀のEV.Cafe』(スペースシャワーネットワーク)にあった、浅田彰を交えた座談会。このなかで坂本は「がんになっても治療を受ける気ないな。がん細胞って分裂し続けるわけだからさ、それはちょっと間違った自分の子供みたいなもんです」と言っています。若い頃、身体が丈夫な人ならでは言い方ですが、さらに加えて「次の世代をもう作ったから、オスとしての役割は終わってるんだ」という話もしているんです。個人の生死を超えた種としての話だと思いますが、ここには村上龍の『愛と幻想のファシズム』との共通性も感じられます。ただ、実際に自分ががんになれば治療は受けるし、それは人間として当たり前のことなのかなと。
佐々木:坂本さんはある時期から西洋医学に対するアンチテーゼとしての東洋医学に傾倒していましたが、ご自分ががんになって、結局はハイブリッドな治療法を選択しました。自分を救うかもしれない西洋医学を否定しきれなかったことを当時も表明しているし、自伝などでも語られています。円堂さんが仰った通り、人間だから弱いところもあるし、矛盾もある。主義として思うことと、主体になったときの行動は違って当然ですからね。地球環境に目覚めて、アクティビストになっていったこともそう。若いときは、デモなどの活動と音楽は別だと切り離していたと思うのですが、50代以降の20年は半分、もしかしたら半分以上はそういう活動を行っていた。『「教授」と呼ばれた男』で強調したかったのは、坂本さんは自分が有名で、人気があることをよくわかっていたんです。それは驕りなどではなく、自分が有名であることを使おうとした。自分の名前を使い、加わることで出来なかったことが可能になったり、押し通されてしまいそうなことを食い止めることができるかもしれないと。坂本龍一にとって“教授”は彼自身ではなかったと思いますが、「“教授”と言われる存在を使って何ができるか?」をある時期からはっきり自覚して、行動したということだと思います。日本の有名な人で、坂本さんほど実際に活動した人はちょっといないでしょうね。



















