角田光代×内藤裕子 Amazonオーディブル『源氏物語』対談 “運命の物語”と向き合う日々を語り尽くす
『源氏物語』以降、小説が書けなくなった
内藤:そもそも角田さんは、1000年も読み継がれてきた物語を訳すということを、どんな思いで引き受けられたのでしょうか?
角田:正直な話、「嫌だけれどしょうがない」という気持ちで、冒頭に申し上げたように、自分がそうだからきっと内藤さんもそうなのではないかと考えてしまいました(笑)。
内藤:嫌だなんて!私はまだ660ページしか読んでいませんが、ここまででも自分が変わってきていることに気づきますし、出会う前といまでは明確に違うんです。全部読み終えた後、自分がどう変化しているか楽しみなのですが、角田さんご自身は、ご執筆を経て何か変わられた部分はありますか?
角田:最初はまったく気がつかなかったのですが、一番大きな変化として、小説が書けなくなりました。『源氏物語』の訳が終わって、すぐに次の連載に取りかかったのですが、以前のように書けないんです。前はもっとスムーズに書けたのに……と思いながら執筆を続けるのですが、その次の連載はますます書けなくなって。よく考えてみると、自分にとっての小説観のようなものが『源氏物語』の5年によって変わってしまって、それまでのやり方ではできなくなってしまったんです。
内藤:そうなんですね。具体的には、どんなところが変わったのでしょうか。
角田:『源氏物語』をやる前は物語に没頭してページをめくってもらえるように、文体は簡素にして、ストーリーありきの小説を目指していたんです。いまもそういうものが書きたいとは思うのですが、『源氏』で一番変わったのは、ストーリーより小説の中の人間が生きているかどうか、ということを深く考えるようになったことで。物語の中の人々が「声」を持っているかどうかーーそれが一番大事だと思うようになってしまっていたんです。実際に執筆しているときは気がつかなかったのですが、ずっと登場人物たちの声を聞き続けていたのだなと。
内藤:よくわかります。角田さんの『源氏物語』を読んでいると、本当に怖いくらい声が聴こえてくるんです。活字から「私、生きているのよ」「あなたはどう語ってくれるの?」って。朗読の仕事はすべてそう、ということではまったくなくて、声を聴こうとしなければ聴こえてこない作品もあるんです。
角田:自分でも気づかないうちに、そうやって声が聴こえるようなものでないと書く意味がないと思ってしまったのだろうと。それで、今年になって連載を一度すべて断らせていただいて、働き方改革のようなことをしてきました(笑)。『源氏物語』とどれくらいの因果関係があるかは自分でもわかりませんが、やはり物語の力が強かったんだと思います。
内藤:だから1000年も生き延びてきて、印刷のない時代から語り継がれてきたんでしょうね。
「読み手の力が8割」作家と読み継がれる物語の関係
内藤:『源氏物語』が持つ、圧倒的な物語の力。一方で、その力は読み手に託された時に読み手側のものになることもあると思うのですが、角田さんは作者と読み手の関係をどう捉えて、小説を書かれているのでしょうか。
角田:これも『源氏物語』を訳していて思ったことがあります。作家として、売れる本が書きたいとか、自分が死んでも残る本を書きたいという思いも少なからずあるわけですが、「それは自分の仕事ではない」ということに気づいたんです。小説というのは、書き手がかかわるのはたぶん全体の2割程度。つまり8割は読み手に委ねられるだろうと。逆にいえば、大部分は読み手が「売れる本にしてくれるか」にかかっているわけで、作者はそこまで頑張らなくていいんだと思えました。
『源氏物語』についても、読み継いできた人たちの力が大きかったんだと思います。この作品がどうして1000年も残ってきたのか、研究者の方に伺ったのですが、最初は、藤原定家という歌人のお父さんで、歌学者として最高位の藤原俊成が「源氏の和歌を知らずに歌など詠むな」という方針で、和歌の教科書としてみんなが読むようになった。そのあとは政治学や帝王学として読まれたこともあったり、良妻賢母のお手本として読まれたこともあった。戦争の時期に危機を迎えたものの、すでにさまざまな形で登場していた二次創作の力もあって、それを乗り越えてきたと。愛好家の人たちは、それぞれ好きなところが違いますし、いろんな読み方をしてきて、それが現在につながっている。そうした読み手の力が8割で、物語がそれを引き出すに耐えうるものだったという結論です。いままた大河ドラマの影響で盛り上がっているのも、単純に物語の力ではなく、また別の視点から捉えた読み手の力だと思いますし、こうして語り継がれていくのだろうと思います。
内藤:そうですね。『源氏物語』にはそういう普遍性があって、「1000年前もいまも変わらないんだな」と思うんです。身を焦がすような恋とか、ままならない結婚生活とか、大切な人の死とか、思いがけない病とかーーそれをどういうふうに乗り越えていくのか。時代を超えて読者が人生を投影しやすいからこそ、読み継がれてきているのではないかと思います。
角田:いま読んでも驚くほどリアリティがありますよね。『源氏物語』は勧善懲悪の物語ではなく、報いを受けてほしい人が図々しく生き残ったりもするし、幼い頃から、物語の中で唯一と言えるくらいの両思いで、やっと結ばれた雲居の雁と夕霧の夫婦にも、結局浮気の問題が生じてしまう。いまの時代にも通用するドラマがたくさんあります。
内藤:最後に、角田さんご自身がこの朗読で楽しみにされているパートがあれば、ぜひ聞かせてください。
角田:私は、「宇治十帖」(第45帖「橋姫」から第54帖「夢浮橋」までの十帖)を楽しみにしています。ここで文体がガラッと変わりますし、なぜ光源氏が死んでしまったところで物語が終わらなかったのか、とずっと思っています。研究者の間でも諸説あり、書き手が変わったという話もありますが、瀬戸内寂聴さんは、宇治十帖を書く頃には紫式部は出家していたはずで、だから文体が違うと分析されていました。私は詳しいことはわかりませんが、エンターテインメントとして執筆した時期は過ぎても、まだ書きたいことがあったのだということに興味があって。そこで内藤さんの朗読がどう変化するのか。きっとすごくささやかな変化だと思いますが、ずっと聴いていればそれに気づけると思うので、楽しみに待っています。
内藤:きょうの言葉を胸に、励みたいと思います。本日は本当にありがとうございました。
Audibleでは、11月29日よりAudible朗読版『源氏物語 2』を配信開始。また、シリーズ累計35万部を突破した角田光代 現代語訳『源氏物語』(河出文庫 古典新訳コレクション)も好評発売中。
<作品情報>
タイトル:Audible朗読版『源氏物語 1』
著者:角田光代著
朗読:内藤裕子
URL:https://www.audible.co.jp/pd/B0D12FV484
<プロフィール>
著者・角田光代
1967年生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。著書に『対岸の彼女』(直木賞)、『八日目の蝉』(中央公論文芸賞)など。『源氏物語』の現代語訳で読売文学賞受賞。
朗読・内藤 裕子
1999年アナウンサーとしてNHK入局。『あさイチ』リポーター、『ニュース7』『首都圏ネットワーク』のキャスター、朝の連続テレビ小説『わかば』や、大河ドラマ『篤姫』紀行ナレーションなどNHKアナウンサーとして18年間務める。現在はフリーアナウンサーとして活動中。
<書籍情報>
書名:源氏物語1~8(河出文庫・古典新訳コレクション)
定価 各880円(本体800円)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309419978/
書名:源氏物語【全8巻】セット(河出文庫・古典新訳コレクション)
定価7,040円(本体6,400円)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309853369/