横溝正史、生前刊行されなかった唯一の作品『死仮面』復刊ーー書評家・千街晶之が2種の文庫版を対比
■これまで入手困難だった横溝正史の『死仮面』オリジナル版が復刊
岡山県八つ墓村で起きた凄惨な連続殺人事件を解決した名探偵・金田一耕助は、東京に戻る前に挨拶かたがた、岡山県警の刑事課に立ち寄った。そこで金田一が磯川警部から見せられたのは、野口慎吾なる芸術家が記した、女の死仮面(デスマスク)にまつわる異常な告白書だった……。
かくしておどろおどろしく開幕し、やがて名門女子校を舞台とする殺人事件へと発展してゆく横溝正史の小説『死仮面』は、2024年現在、2種類の文庫本で読むことが可能だ。1つは、1984年に刊行され、2022年に新装版で復刊された角川文庫版。もう1つは、2024年9月に刊行されたばかりの春陽文庫版『死仮面〔オリジナル版〕』である。
『八つ墓村』や『犬神家の一族』といった横溝の超メジャー級作品でさえ、文庫は角川文庫版のみということを思えば異例というしかないが、これには事情がある。そもそも『死仮面』は、金田一耕助シリーズの完結した長篇のうち、著者の生前に刊行されなかった唯一の作品だった。もとは名古屋の中部日本新聞社が出していた雑誌「物語」の1949年5月号から12月号まで連載された小説だが、当時、横溝はこの小説が気に入らず、本にしなかった。ただし、その後ずっと忘れ去っていたわけではなく、晩年にこの作品を全面的に改稿する意欲はあったのだ。
だが横溝は病に冒され、『死仮面』の改稿を終わらせる前に他界した。生前、推理小説研究家の中島河太郎が『死仮面』が掲載された「物語」のバックナンバーを集めて単行本化しようとしたものの、8月号だけがどうしても見つからず、やむを得ずその部分だけを横溝の了承のもとに中島が補筆することになった。こうして1982年1月にカドカワノベルズ版が刊行されたが、横溝は前年の12月に逝去していた。現在入手可能な角川文庫版は、このカドカワノベルズ版が底本である。『死仮面』は1986年にドラマ化されたが(金田一耕助役は古谷一行)、その内容はこの角川文庫版をもとにしている。
中島河太郎は角川文庫版の解説で、自身が補筆した章について「他日、この分が発見されたら当然さし替えねばならない。作品を傷つけるのではないかと私自身にとっても不本意だが、いまは宥しを乞うほかはない」と記している。その欠落した章が掲載された「物語」8月号が発見され、横溝本人のテキストを復元したかたちで刊行されたのが、中島河太郎が亡くなる前年の1998年に刊行された春陽文庫版である。
めでたしめでたし……と言いたいところながら、春陽文庫版が横溝のテキストを復元したオリジナル版であるということはあまり知られず、品切れになってから古書価格が高騰する状態となったのだ。