高橋源一郎が示す、「間違った歴史」との接し方 6年ぶりの大長編擬似歴史小説『DJヒロヒト』を読む

高橋源一郎『DJヒロヒト』レビュー
高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』(朝日新聞社)

 そうした理念から、単行本化に際してタイトルに付け加えられた「DJ」という設定についてもある程度説明できるのではないだろうか。巻末で高橋が明言するとおり、本書が参照する膨大な資料は、大小の改変が加えられている場合もあれば、資料に擬態した虚構、あるいは逆に嘘のような事実を伝える資料である場合もある。あらゆる資料は高橋によりバラバラにされ、そして再度繋ぎ合わされ、まるで「DJがレコード音源を自由にリミックスするように」使用されている。

  デビュー以来、カルチャーの硬軟を問わず、さまざまな「断片」を自らの小説に散りばめてきた高橋の本領発揮と言わんばかりに、本書『DJヒロヒト』では、「大日本帝国憲法」や「教育勅語」から、本多猪四郎/中村真一郎・福永武彦・堀田善衛『モスラ』(1961年)や宮崎駿『風の谷のナウシカ』(1984年)まで、多様な「昭和」の「言葉」が参照され、解体され、再び接合されることで「現在」の響きで再生されるのである。それこそがなにより、「正しさ」より「楽しさ」を優先する、という本書の姿勢の現れではないだろうか。かつて高橋はこう書いた。

〈なぜ、断片でなければならないのか。二十世紀の「小説の中興の祖」ガルシア・マルケスの代表的作品は、よく読むと、むすうの断片によって成り立っている。かれの作品は、現代文学ではなく民衆の古い記憶や伝承の上に物語を構築していったとされるが、厳密にいうならそれは過ちである。たとえば、マルケスの読者は音楽を聞くようにかれの作品を読むが、それは古いメロディーが再現されているからではない。マルケスは、現在の読者の耳がすでに過去の音楽を楽しめないことを熟知している。だから、かれは音楽を一度、ひとつひとつの音にまで分解してから再構成する。そしてその音はサンプリングマシンによって人工的に作られた音である。〉(高橋源一郎「「文」の運命」『文学じゃないかもしれない症候群』1992年)

 ここで高橋はマルケスの文学を引き合いに出しながら、「現在の読者の耳」ではストレートに「楽しめな」くなった「過去の音楽」を「断片」、つまりは「ひとつひとつの音にまで分解してから再構成」された音、「サンプリングマシン」により「人工的に作られた音」を肯定する。それはまさにこの小説の方法そのものであるだろう。

 むろん、それは「大人」が「歴史」にとるべき態度として、いささか楽観的過ぎる、という非難は至極もっともである。歴史意識の欠落した時代、あるいは「間違った歴史」の氾濫した時代にあって、「正しい歴史」より「楽しい歴史」を優先するのは、軽薄で「子ども」じみている。かりにそのような批判があるとして、それもまた正鵠を射たものであるだろう。だが、こう思うのだ。この『DJヒロヒト』という「小説」から学ぶべきは、たぶん「正しい歴史」との付き合い方ではない。本書がわれわれに教示しようとしているのは、むしろ「間違った歴史」との接し方なのではないか。「歴史家」ではない「小説家」という存在が、それでも「歴史意識」について考えるとしたら、おそらくはそうした方向性においてであるだろう。少なくとも本書は、そうしたベクトルから「歴史」に肉薄しているように思う。本書中に出てくる戦後文学作品のタイトルを借りて言えば、それが「歴史」という友人に対し、「小説家」という「悪い仲間」がただひとつ担い得る役割なのだ、とでも言うように。

■書籍情報
『DJヒロヒト』
著者:高橋源一郎
価格:4,180円(税込)
発売日:2024年2月29日
出版社:新潮社

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