杉江松恋の新鋭作家ハンティング 日比野コレコ『モモ100%』に溢れる“強烈な言葉”たち
なるほど、と思いながら本作を読んでみると、たしかに強烈な言葉に溢れている。主人公にとって重要な存在となる星野という同級生は「まさにその、経血がついた布団にしみこませるメイク落としのような男だった」と紹介され「どんな小さな綻びを自分に見つけても、そこからテーブルクロスを一気に引くみたいにその綻びを拡げられ」「パラバルーンみたくひらりとすべての事象を大きく覆って、かろやかに周りをけむに巻く」。「星野と付き合うようになってからモモは、キスの仕方がわからないから寝ているトモダチで練習していた小学校の頃が懐かしい、と思うように」なるのである。
3つのページから一部の表現を抜き書きしただけでもこの輝きだ。これは間違いなく、文章を目で追うこと自体が読者にとっての快楽となる小説である。比喩や文章上の修辞というものは、そこで表現しようとすることを剥き出しの形ではなく、効果的に演出するために用いられる。小説とはその演出の連なりによって作り出された文章芸術だ。もちろん小説は自由なものなので、文章が意味に従属する義務はなく、文章の連なりが生み出す意味が先行して、それによって物語の進行が決定されてもかまわない。
『モモ100%』は基本的に、語り手であるモモが十代における自分のありようやその成り立ちをほぼ時系列に沿った形で読者に示していくことが主導する小説なのだが、すべてが主線に集約されるように書かれているわけではなく、部分では文章自体が生み出す躍動感や閃きが優先される。それによって生産されたイメージが主線の物語に回帰するような形でモモコの語りは補強されていくのである。読むという行為によって生み出されたものが作品を形成していくような感覚がページを繰るごとに得られる。素晴らしい自由度だ。
本作に目を通すことによって自分が世界の中で生きているという実感を再獲得する読者もいるのではないだろうか。生の感覚がこの中にはあると私は感じた。生きることに倦んだときに読むべき小説の一つであると思う。日比野コレコの小説がある、ということを若い読者に知ってもらえれば幸いだ。