ジェームズ・ボンド、映画とはまったく異なる地味なキャラ 小説『007/カジノ・ロワイヤル』を読む

ジェームズ・ボンド、小説では地味なキャラ 

■派手で荒唐無稽なフィクションスターの地味な原典

 『007/カジノ・ロワイヤル』は「午前三時になると、カジノには煙と汗で人に吐き気を催させるにおいが立ちこめる」の一文で始まる。以降、物語の大半の部分はカジノとホテルで完結する。回想などの一部分を除き、舞台となっているロワイヤル・レゾー(フランスの架空の街)からも出ない。

  2006年の映画『007/カジノ・ロワイヤル』で描かれていた、マダガスカルでの追跡劇、マイアミの空港での大立ち回り、クライマックスのヴェネチアでの派手なアクションはすべて映画のオリジナルである。

  アクションらしいアクションで唯一共通しているのは、敵につかまったボンドが拷問を受ける場面ぐらいで、この場面は拷問方法も含め原作に忠実だ。男性諸氏は想像もしたくない種類の拷問である。それ以外はひたすらボンドが座ってギャンブルしている場面が続くとことん地味な話である。シリーズが始まった当初の時点で、著者のイアン・フレミングはボンドの事を「一介の野暮な公務員」としか認識していなかったようだ。

  先入観を排して見てみると「ジェームズ・ボンド」という名前も特に珍しくない、いかにもその辺にいそうな平凡な名前だ。それもそのはずで名前のもとになっているのは実在のアメリカ人鳥類学者である。

  ボンドの生い立ちなどパーソナルなバックグラウンドの描写も殆ど無い。映画『007 スカイフォール』ではボンドのルーツが描かれているが、同作はオリジナル脚本である。いわば二次創作のようなものである映画の方がキャラクターが掘り下げられているのは面白い。描写されているボンドの風貌もパブリックイメージとだいぶ異なる。原作では下記のように描写されている。

 「灰色がかったブルーの瞳が、かすかに皮肉っぽくたずねかけるように落ち着いて見返してきた。決して一か所にとどまってくれない短い黒髪のひと房が、右の眉毛の上でゆっくりとカンマの形を作った。右の頬に残る縦一直線の傷跡が、どことなく海賊めいた雰囲気を与えていた。」

  加えて作中で初代ボンドガールのヴェスパー・リンドはボンドの風貌を「ホーギー・カーマイケルに似ている」と語っている。

  歌手・ピアニスト・作曲家として活躍したカーマイケルは写真が残っているが、正統派なハンサムというよりはワイルドな風貌の伊達男といった印象だ。これらの描写から小奇麗なイケメンの風貌を思い浮かべる読者はあまりいないのではないだろうか。

  特に「ハンサム過ぎる」との理不尽な理由でオーディションに落選したこともあるピアース・ブロスナン(5代目007)など相当にイメージから遠い。原作描写と共通しているのは黒髪なことぐらいだろう。

  6代目のダニエル・クレイグは古代ギリシャから伝わる美の黄金比率の見地から「歴代最もハンサムでないボンド」などという失礼極まりない評価を下されているようだが、原作のボンドはワイルドで正統派なハンサムとは言い難い風貌である。 原作のイメージに一番近いのは歴代で最もハンサムではないダニエル・クレイグではないかと筆者は思っている。

■意外とスパイにリアルな原典

  ご存じない方には意外かもしれないが、イアン・フレミングには二次世界大戦中、諜報員として活動した経歴がある。

  映画『007/ゴールデンアイ』のタイトルはフレミングが指揮を執った特別任務”Operation Goldeneye”に由来する。フレミング自身が現実に諜報員をしていたため、思わぬところで彼の名前に出くわすことがある。

ベン・マッキンタイアー『ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』(中央公論新社)

 第二次世界大戦中に実施された奇想天外な欺瞞作戦「ミンスミート作戦」は英国海軍情報部に所属していたイアン・フレミングの発案がもとになったとされている。その過程はベン・マッキンタイアー(著)『ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』(中央公論新社)に描かれている。

  イギリスのテレビシリーズ『ジェームズ・ボンドを夢見た男』ではジェームズ・ボンドではなく、作者であるイアン・フレミングその人が主人公になっている。

  同作ではフレミングが1939年に英海軍情報部(NID)に勤務し、スパイとして活動するようになってから、第二次世界大戦の終結直前に引退するまでが描かれている。

  そのような経歴もあり、フィクショナルな「007」にはリアルがところどころ紛れ込んでいる。原作のボンドは「ジャマイカの大農園主でギャンブル好き」という偽の経歴でカジノに潜入している。この辺りの設定は地味だがリアルだ。

 スパイが語る偽の経歴の事を「レジェンド」や「カバー」と言う。情報収集がしやすいため、記者やジャーナリストを名乗ることが多い。 現実でも第二次大戦時にソ連のスパイとして暗躍したリヒャルト・ゾルゲ(1895-1944)はジャーナリストを表の顔としていた。

  現実のスパイは同じく第二次大戦時にソ連のスパイとして暗躍したルドルフ・アベル(1903-1971)のように地味な風貌で地味な生活をしている場合が多いようだが、ゾルゲは社交的で大酒飲みで大変なプレイボーイでもあった。フレミングも大酒飲みでプレイボーイだった。ボンドも大酒飲みでプレイボーイである。

池上彰『世界史を変えたスパイたち』(日経BP)

  このあたり詳しくは池上彰(著)『世界史を変えたスパイたち』(日経BP)をご参照いただきたい。ボンドの役割は主にヒューミント(人を介した諜報活動)で、MI6という確たる組織に属しているので現実世界ではスパイでも特にケース・オフィサーに当てはまるが、暗殺などの荒事も行っている。『007/カジノ・ロワイヤル』劇中でも「日本人の暗号解読専門家」「ノルウェー人の二重スパイ」を暗殺したことを明言している。

  落合 浩太郎(監修)『近現代 スパイの作法』(ジー・ビー)によると暗殺を専門に行うスパイの事を特にアサシンと呼ぶとのことだが、ボンドが受けている00の称号ははケース・オフィサーとアサシンを兼ね備えた役割のようだ。シリーズの人気が高まり、人気が映画化で加速するとボンドは指数関数的にスーパーマン化していく。原作との乖離も激しくなり、映画『007/ムーンレイカー』でボンドはついに宇宙にまで進出する。しかしながら、原作の『007 ムーンレイカー』ではボンドはイギリス国内からすら出ない。とはいえ、やはり「007」シリーズの根底にあるのはやはり、煽情的なフィクショナリズムである。

落合 浩太郎『近現代 スパイの作法』(ジー・ビー)

  ボンドが『007 / カジノ・ロワイヤル』で従事した作戦は「ギャンブルで悪役のル・シッフルを打ち負かして破産させる」というものである。作戦はボンドのギャンブルの腕にほぼすべてが依拠したもので、常識的に考えて杜撰と言わざるを得ない。

  まともな組織ならばそんな作戦は立てないだろう。筋立て自体が根本的に荒唐無稽である。地味かつ徹底的にリアリズムを追求したジョン・ル・カレ(彼もまたMI6に所属していた元情報部員)と根本的な部分で創作姿勢が分かたれている。

  ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』『スクールボーイ閣下』『スマイリーと仲間たち』に登場するジョージ・スマイリーはル・カレの作品を代表する名物キャラクターだが、風貌はヒギガエルに例えられるように小太りで猫背で冴えない初老男だ。ジェームズ・ボンドとは対照的である。

  だが、対照的だがどちらも良い。フレミングもル・カレもスパイ小説で一時代を築いたことに違いはないのだ。

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