現役裁判官が描く、新人離れしたハイ・レベルな事件簿 ドイツ産ミステリ『暗黒の瞬間』を読む

日本は翻訳ミステリ大国である。昔から数多くの翻訳ミステリが出版されているのだ。ただしアメリカとイギリスの作品が中心。フランス・ミステリもあるが、数は少し少ない。この三つ以外の国の翻訳ミステリとなると、微々たるものである。スウェーデンの夫婦作家、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーの警察小説「マルティン・ベック」シリーズのような人気作もあったが、例外といっていい。
法学者にして裁判官、異色の新星が放つ独ミステリの収穫

もちろんドイツ・ミステリも同じであった。個人的な話になるが、日本で読めるドイツ・ミステリと聞かれても、ワルター・ハーリヒの『妖女ドレッテ』くらいしか、挙げられないことがあった。そのような状況が、ずっと続いていたのだ。しかし翻訳ミステリの世界は大きく変化し。現在では北欧や中国に韓国、そしてドイツのミステリも、盛んに翻訳されているのである。そんなドイツ・ミステリの新たなる収穫が、エリーザ・ホーフェンの『暗黒の瞬間』だ。作者は刑法を専門とする法学者で、現在はライプツィヒ大学の法学部教授と、ザクセン州憲法裁判所の裁判官も勤めているという。一方で、児童書と専門書を共著で発表した後、初のミステリである本書を出版。法学者としての知識と、深い人間洞察により、新人作家とは思えないほど、ハイ・レベルなミステリを書き上げたのだ。
本書は連作である。主人公はベルリンで働く、弁護士のエーファ・ヘアベアゲン。仕事ができ、常に依頼人のために尽くしている。ただし担当する事件にのめり込みすぎて、大学教授の夫のペーターと揉めることもある。といっても夫婦仲は良好。年齢は六十代で、身体の衰えを感じ、やがて来る死を意識しはじめている。プロローグでは弁護士資格を返上しようかどうか迷っている場面が描かれている。
弁護士エーファを揺さぶる、法と正義の狭間の「暗黒」
第1の事件「正当防衛」は2021年の10月から始まる。友人の夫婦と、夫のペーターと共に、スペインのグラン・カナリアへ旅行に出かけたエーファ。しかし、ホテルである新聞記事を目にした。大富豪の家に強盗が侵入。価値のある絵画を持って逃亡しようとしたが、大富豪によって射殺された。そして裁判で大富豪は正当防衛を認められ、無罪判決となったとのことである。
この記事にある大富豪は、かつてエーファに法律の知識を聞いた人物ではないのか。自分の話した知識が、この事件に利用されたのではないか。なにやら理由があって、法律事務所の同僚を頼ることなく、自分で調べなければ気が済まないエーファは、旅行先から真実を追う。
事件の真相や、その後の展開は、読んでのお楽しみ。エーファが事件にのめり込む理由は、過去の出来事に関係しているらしいが、この時点ではっきりと書かれていない。いきなり読者の興味を強く惹く、作者の手腕が優れている。
続く第2の事件「生かしておく」は、2010年8月に時間が戻る。企業コンサルタントのトーマス・ヴェーバーは、妻のラリッサからの切羽詰まったようなメッセージが来たことで、急遽、家に帰る。家には、ラリッサの兄のクリストフの死体があった。ラリッサは人気作家であり、クリストフはマネージャーをしている。だがトーマスから見ると、兄が妹を食いものにしているとしか思えない。ラリッサは兄を殺してしまったというが、そのあたりに原因があるのか。困ったトーマスは、自分たち夫婦の友人であり、近所に住んでいるエーファを頼る。そしてエーファは、事件の隠蔽に手を貸すことになるのだった。
法の限界を超えて突き進む、ある「過去の事件」の呪縛
エーファが事件にのめり込む原因は、この件が原因なのかと思いながら読んでいたら、あまりの展開に驚く。弁護士なのに、それでいいのか。さらに終盤で意外な事実が明らかになり、またもや驚く。ただし、この件がエーファの行動の原因ではないようだ。話のラストで、さらにシュテファン・ハインリヒという人物が関係した、過去の出来事があることが示唆される。ますます先が気になってくるではないか。
以下、現代に戻って(過去から始まり現代に至る話もある)、エーファの担当した事件が描かれていく。これがどれも強烈。第3の事件「少年兵」は、人道に対する罪および戦争犯罪で起訴されたウガンダ難民のケネス・オケロの弁護をすることになる。反乱軍の兵士で、人を殺し、子供を少年兵にするために連れ去っていたというオケロ。だが、ウガンダ人が母国で行った戦争犯罪を、無関係なドイツで裁くことに意味があるのか。エーファの調査により、やがてオケロの過去が明らかになり、これを踏まえた判決が下される。さらにその後で明らかになる真実は、ミステリを読みなれている人なら、なんとなく察するかもしれない。しかし物語の中で語られると、インパクトは抜群だ。
この調子で各話について詳しく書いていくと、いつまでたっても終わらないので、少し省略しよう。どの事件も第3の事件と同じようにインパクトは抜群。そこから、法と正義、事実と真実、罪と罰などの狭間で、さまざまな問題が揺れている。法は完璧でなく、人間の心の闇も深い。だからエーファは何度も、人間の“暗黒の瞬間”と直面することになるのだ。
そして第8の事件「自白」のやりきれない結末を経て、第9の事件「シュテファン・ハインリヒ」の事件が綴られる。なるほど、エーファの過剰ともいえる弁護士としての行動の理由は、この事件にあったのか。しかしこちらも、本当にやりきれない話である。
ラストに置かれた「すべてよし」のように、エーファがしたたかに立ち回り、痛快な展開となることもある。ただし作者の筆致は冷静であり、突きつけられた問題の方が気になってならない。だが、そこに本書の価値がある。誰だって“暗闇の瞬間”に陥る可能性があるからこそ、描かれた事件の顛末と、エーファの弁護士としての理念を熟考したいのだ。
■書誌情報
『暗黒の瞬間』
著者:エリーザ・ホーフェン
翻訳:浅井晶子
価格:2,530円
発売日:2026年2月12日
出版社:東京創元社
























