浅野いにお『零落』映画公開で注目される壮絶な“漫画と人生”を描いた「半自伝」の内容
現在、浅野いにおの漫画作品を原作とする実写映画『零落』(竹中直人監督・斎藤工主演)が公開中だ。
『零落』は、2017年、「ビッグコミックスペリオール」に全8回で連載された、1人の漫画家の凄絶な煩悶を描いた物語である。
主人公の名は、深澤薫。『さよならサンセット』という作品で一躍人気漫画家になるも、その後の彼は、「他人に受け入れられる事への感動」と「期待される事への苦しみ」の狭間で悩み、思うように新作のネームを描けずにいた。また、私生活では漫画編集者である妻とすれ違いの日々を送っており、彼を支持していたはずの「若い読者」たちの関心も、新しい才能に奪われつつあった……。
そんななか、深澤は、ちふゆという「猫みたいな目」をした少女と出会う。風俗店で働いているちふゆは、深澤が若い頃につき合っていた女性(実は、かつてその女性がいったある言葉が、深澤をいまも呪縛し続けているのだが)とどことなく似ており、そのせいか彼は彼女に徐々に惹かれていく。
※以下、『零落』のストーリー展開について触れています。同作を未読の方はご注意ください。(筆者)
だが、ちふゆという新たな恋人の存在も、深澤を大きく変えてはくれなかった。2人の仲は、彼女の故郷へ一緒に旅するまでのものへと進展するのだが、自分が漫画家であることを知られた深澤は、しだいに少女への関心を失っていく(ちふゆの方でも、深澤からのラインを無視するなど、旅の後でなんらかの心境の変化があったようだ)。
物語のクライマックスで、なぜ漫画家は泣いたのか
『零落』の最終話では、過去の回想を織り交ぜながら、深澤のサイン会の様子が描かれる。どうやら彼は、さまざまな苦悩の末に新作を生み出し、さらにはヒットもさせたようだ(新作の単行本の帯に、「たちまち大重版!!」というアオリ文句がある)。
だが、そのサイン会の控え室で新作を絶賛し、「ネットでも泣けるって話題になってますよ」といってくれた書店員に向かって、彼はこう答えるのだった。「それはよかった…。馬鹿でも泣けるように描きましたから…」
一瞬、その場は凍りつくが、深澤は畳み掛けるように、「今の漫画読者にとっては、この程度の媚びた漫画が丁度いいんでしょうね。…ま、娯楽なんて騙したもん勝ちでしょ。売れりゃあ、それが正義なんですよ」とまでいう。
これが彼の本心かどうかはわからない。しかし、その直後に始まったサイン会で、深澤は、昔から彼を応援してくれているある女性ファンからこんなことをいわれる。「こんな素敵な作品がこれからも読めるなら…。…私、もう少しだけ頑張って生きてみようって思えて…」
その言葉を聞いた彼は、目に涙を浮かべながら、「君は…何もわかってない…」というのだが、この場面をどう解釈するかは読み手次第だろう。つまり、普通に考えたらここは、“売れるために描いた不本意な作品”でも、1人の純粋な読者の心に響いたことに主人公が思わず感動した場面、ということになる。
しかし、作者が意図しているのはたぶんそういうことではないだろう。深澤がなぜ、女性ファンの言葉を聞いて悲しみをおぼえたかというと、それは、いまの彼が“読者に媚びず、本気で描きたいと思って描いた作品”では、彼女の心は動かないということを知っているからだ。それでも彼は漫画を描き続けるだろう。「零落」といわれようがなんといわれようが、彼にとって漫画とは人生そのものだからだ。
深澤薫は浅野いにおなのか
それではその深澤薫の分身ともいえる浅野いにおはどうなのか。少なくとも、「売れるために読者に媚びていい」と考えているかどうかについては、考えていない、と断言できる(繰り返しになるが、それが深澤にとっても本心かどうかはわからないのだが)。
あらためていうまでもなく、『零落』における深澤のヒット作『さよならサンセット』は、浅野作品では『ソラニン』ということになるだろう。じっさい、『ソラニン』は、作者の予想を大きく上回る形でヒットしていった作品だと思われる。
ならば、同じ路線で“次の作品”を描いた方が楽に決まっているのだ。また、多くの読者もそれを望んでいるだろう。だが、浅野はそういう楽な道は選ばなかった。
周知のように、『ソラニン』の後に描かれた作品――たとえば、『おやすみプンプン』にしても、『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』にしても、それぞれが全く異なる方向性や方法論を持った実験作である。作家としての振り幅が大きい、といってしまえばそれまでだが、場合によっては『ソラニン』で得た多くの読者を失うかもしれないわけで、現実的にはかなり覚悟がいることだったと思う。そしてそれは、浅野いにおという作家が、漫画という表現とその読者を、いまだに信じていることの証でもある。
奇しくも、『零落』が掲載されたのと同じ「ビッグコミックスペリオール」にて、浅野の新連載『MUJINA IN TO THE DEEP』が始まったばかりだ。「現代の忍者物」ともいうべき破天荒なエンターテインメント作品だが、激しいアクションを前面に押し出した浅野作品は、(長編では)これが初かもしれない。期待していい、と思う。