川上未映子の新境地『黄色い家』インタビュー 「人間のどうしようもないエネルギーを物語にしたかった」

川上未映子『黄色い家』インタビュー

全力でドタバタ生きるエネルギーを目撃したかった

――花の周辺の人々には恋愛やセックスにまつわるエピソードが出てきますが、主人公の彼女本人はそういう方面に興味を示しません。それは意識してのことですか。  

川上 長編小説が、読者になぜ最後まで読んでもらえるのか。わたしは、息もつかせぬ謎解きといった筋は書けないから、この主人公だったら見届けてやろうと思ってもらえるような、なにか信頼に値するものが語り手の魂にあればいいなと考えています。その際、花に持ってもらいたいというか、無意識でむこうから現れたのが、子どものがむしゃらさ、一生懸命さ、打算のなさでした。 花の立場ならセックス・ワークへ走る可能性もありますよね。でも、そっちに行かないというか、行けないというか。身体に価値があるというのは社会化された価値観であって、花はそっちじゃなかった。最近よく指摘されるんですけど、自分の作品には、そういう傾向がずっとありますね。イノセンスで人間がどこまでいけるか、それを物語に託している部分もあると思います。  

――ただ、花はイノセントだけど、やることは犯罪だというねじれがあります。  

川上 そうですよね。あんなに必死にシノギをやるのに、基本的に自分のためじゃないんですね。だから、読者からも「花ちゃん、がんばれ」の声が多かったです。贅沢したいわけじゃないし、みんなと普通の暮らしを続けていくための猶予のためなんですね。そのために頑張んなきゃいけないと思いこむ。 「一歩間違えたらわたしも花になったかもしれない」と思う読者もいるはずです。でも、わたしは花を不幸だな、とも、可哀想だとも思わないです。書いて思ったのは、もう始まったものを全力でドタバタ生きる彼女のエネルギーを、ただ目撃したかったなんだなということ。社会的な問題、顔が見えない犯罪、連帯の暗部とか、切り口みたいなのってたくさんあると思うけど、でも、それよりも、金、家、犯罪、それらが絡みあったときのカーニバル的な祝祭感、そういう、人間のどうしようもないエネルギーを物語にしたかったんだと感じました。 今回の小説には議論もないし。その意味で、わたしが書いたというより、大阪にいた頃からわたしと会ってくれて一緒にご飯を食べて泣いて笑ったいろんな人たちのボイスというか、時間が、書かせてくれたんだと思います。完全なフィクションですけど、慣れ親しんだ世界を書いた気がするし、わたしはパソコンに向かっただけというか、なんもやってない感じ。  

(c)神藤剛

――議論はないけど、激しいやりとりはありますよね。桃子が花に「あんたくらい苦労した人はいないよね、すごいよね」と嫌みを言って「あははははっ」と笑うところとか。 

 川上 つらいですよね、図星をつかれて。小説の最後の方は、花が家のお父さんみたいになっていくんです。真面目なんだけど、熱意が人を抑圧して、家父長になる危うさをあわせ持っています。花はとてもいい子だと思うけれど、一生懸命な人にありがちな鈍さとか、図々しさもあって。あと、「花ちゃんといるとだいじょうぶだって思える」とか「花ちゃんはすごい」といわれて喜んで、自分を追い込んでしまう関係とか。花に気づかせてはいけないことや、反省させちゃいけないことがたくさんあって、花の造形には最後まで気が抜けませんでした。  

――4人の女性の性格の違いは、それぞれの母娘関係や経済状態が関係しているように思いますが、黄美子さんについては、いまひとつつかみどころがないのが魅力でもあります。  

川上 なにが問題かもわからないまま流されていって、いいように使われてしまう人たちがいます。わたしは90年代にクラブでホステスをしていて、いろんな人と過ごしましたが、利用される人たちは、その危うさとおなじくらい、タフでもあるんです。『黄色い家』は夜が舞台のスナック小説でもあるし、わたしは黄美子さんみたいな人を、しっかりと書きたいと思いました。 15歳くらいで黄美子さんのような人に会うと、普通の大人じゃなくて、話のわかる若い感覚を持ったお姉ちゃんくらいに思うんです。だから同レベルで遊ぶけど、だんだん、あれ? となり、こっちが成長するにつれ、見方が変わっていく。左右がわかるように手に痣が入れられたとか、読者はわかってくれると思う。黄美子さんが、どれほどタフな人生を歩んできた人なのか。  

――小説のラストは、プルーフ(完成前の見本)になった後、さらに直された。書籍化に際してはかなり修正されたんですか。  

川上 紙幅の関係で駆け足にならざるを得なかった箇所もあるので、描写を増やしたり。大筋は変わっていませんが、最後の、黄美子と花の会話では、重要な変更をしました。  

――『黄色い家』連載中に川上さんは、ビアトリクス・ポター『ピーターラビット』シリーズの翻訳を始め、2022年3月から刊行がスタートしました。初の翻訳仕事はいかがですか。  

川上 文筆の仕事をして約15年ですけど、翻訳でまた新人として仕事をさせていただける。全然できないと思いながら頭をぶつけて、恥をかきながらやらせてもらえるのは、ありがたいです。ポターや作品自体がヒントをくれていて、そのていねいな言葉づかいに癖があるので、それを懸命につかみ出しています。刊行順に訳すのもありがたくて、ポターがだんだん変化するのを一緒に追っています。美しく韻を踏んでいるんだけど、リズムや音の流れ……そういうところをなんとか日本語に置き換えられたらいいな、と思っています。 

――逆に川上さんの作品は海外で注目され、翻訳される立場でもある。『黄色い家』もすでに各国から翻訳オファーがあるそうですね。翻訳に関して考え方に変化はありましたか。  

川上 『夏物語』とか海外で多くの方が読んでくださったけれど、当然だけど、日本語ではないわけですよね。なにが伝わっているかは、確認できない。でもそれは、オリジナルの言語で読む人でも、おなじだと言えるかもしれない。みんな、一冊の本からなにを読みとるのかは、違うから。  

――『黄色い家』が本になったことで、次になにを書こうかと、もう考えていますか。  

川上 宗教をやらないといけないと10年以上思っています。作家のナルシシズムですけど、フィクションとはいえ、自作の登場人物をひどい目にあわせると忘れられないんです。刺激を与えるためだけでなく、必然性があって書いたんですけど、『ヘヴン』(2009年)のコジマとか。ずっと気になっています。 

――『ヘヴン』は中学生の「僕」とコジマという女子が、クラスでいじめられる設定でした。  

川上 今、宗教というと、社会現象としての善悪やお金の流れなどが連想されると思うし、重要な問題だと思います。でもわたしが取り組むのは、観念についてになると思います。『ヘヴン』は、ニーチェを下じきにした宗教の話でもありました。ニーチェの哲学は善くも悪くも、人間がどうやって力の意志を持って生きるかという、この世の話です。でも、わたしが考えなきゃいけないのは、カントの定言命法(無条件に「~せよ」と命じる道徳の形式)の「なにも言ってなさ」かもしれないと思っています。  

――『夏物語』が『乳と卵』(2008年)を発展させた長編だったように、その長編も『ヘヴン』を包みこむように書くイメージですか。  

川上 どうなるのかは、まだ全然わからないです。でも長さとしては、だいたい2000枚くらいになるのかなあ。『黄色い家』2冊分。誰が読むんだろう(笑)。コジマのことは引っかかっているし、『夏物語』の善百合子のことも思っているし、いつか書かなきゃいけないと思っています。 

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