川上未映子が語る、現代社会の茫洋とした怖さ 「みんな、自分が他人にしたことのほとんどを忘れている」

川上未映子が語る、茫洋とした怖さ
川上未映子『春のこわいもの』(新潮社)

 女性の身体と出産を軸にした生命の本質を、豊潤にして奔放な筆致で描いた『夏物語』(2019年)が国内外で高い評価を獲得。世界的作家への一歩を踏み出した川上未映子から、待望の新作『春のこわいもの』が届けられた。

 本作の舞台はパンデミック目前の東京。“ギャラ飲み”で稼ぎ、美容整形したいと願う20代の女性、死を待つ病床で人生を振り返る老女、親友を裏切った過去と向き合う40代の女流作家などを描いた6つの短編からなる作品だ。「最悪な出来事が起きる直前の”今“を書きつけたい。それはずっと一貫しています」という彼女。『春のこわいもの』を中心に、小説家としてのスタンスや社会との向き合い方などについて聞いた。(森朋之)

直前を書くことそのものが“今”を書くこと

ーー2019年に刊行された『夏物語』は世界40か国以上で翻訳され、各国でベストセラーとなりました。川上さんのキャリアにとっても大きな作品になったと思います。

川上:これまででいちばん長い作品になりましたし、初期の短編『乳と卵』(2008年)のときは書けなかったことを、10年以上仕事をしてきて、ようやく書けたのかもしれない、という感じです。パートナーのいない女性が親になろうとしたときに、どんな葛藤があり、方法があるのか。そもそも、子どもを生むとはどういうことなのか。今の社会的な問題とリンクしているところもあるんですが、生まれてくるということは、死ぬのとおなじくらいとりかえしのつかないことではないか──『夏物語』のテーマは、子どものときから考えたり、感じたりしていることとつながっています。それを形にできたという意味でも、節目の作品になったのかもしれません。

ーーこれまでの集大成とも呼べる作品が、世界的な評価を得たことはどう捉えていますか?

川上:すごく遠くにいる読者が手にとってくれたことが、なにより嬉しいです。内容的には、これまで期待されていたり、こうだよな、と思われていた日本のイメージとは違うものを受け取ってもらったというような実感もありました。海外での出版にかんしては、翻訳者との作業を中心にチームで取り組んできたことだったので、ひとつひとつを形にしていく過程そのものにたいする喜びが大きいです。

ーー『夏物語』を書き終わった時点で、既に次回作の構想はあったんですか?

川上:長編も短編も、構想はあるんですけど、時間に追われてどうしようもない、という感じです。今回の『春のこわいもの』は、2019年の11月くらいにお話をいただいてから、20年の暮れに書きました。パンデミックの直前を生きてる人たちを描いた連作になりました。

ーー『春のこわいもの』の舞台は、2020年の初春の東京。背景にはコロナ禍がはじまった当初の、とらえどころのない不安が感じられます。

川上:特殊な状況に置かれることによって、無意識の奥に閉じ込めていた問題があぶり出される状況を書くことになりました。“それ”が私たちの何を開けたことになるのか、と……。

ーーコロナ禍によって世界は一変したけれど、その前から存在していた問題はずっと続いているし、むしろ増幅されていますからね。

川上:そうですよね。アルベール・カミュの『ペスト』がたくさん読まれましたけど、冒頭にダニエル・デフォーの文章が引用されていますよね。“ある監禁状態を他の監禁状態によって表現することは理にかなっている”ということが書かれているんですが(※)、『春のこわいもの』には、今まで気づいていなかったけど、でも、こうなるまえからずうっと“あなた”を捕らえていたものが出てくるんですよね。それは、わたしたちが逃れようのないルール、たとえば“いつか必ず死ぬ”みたいな、初期設定というか、原則もそう。わたしたちは普段、それを見ないようにしているし、忘れていることで希望をつないでいるんだけど、コロナという特殊な状況によって、それがせり出してきました。

※「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである。」ダニエル・デフォー(『ロビンソン・クルーソーの敬虔な内省』/1720年)

ーー絶対に逃れられない状況、見て見ぬふりをしてたものが前景化してくる。その直前の状態を描いていると。

川上:そうですね。たとえば昔の写真を見ても、「このときはみんな、その後に起きることを知らなかったんだ」と思いますし、なにかしていても、この瞬間が「失われ」に属していることを意識してしまう。そうした「なにかの直前」を書きたいのは“失われたときを残しておきたい”ということではなくて、直前を書くことそのものが“今”を書くことになるからだという直感があるからだと思う。『春のこわいもの』の根っこにあるのも、そんなようなものかもしれません。

ーーなるほど。2020年の春の初め、本格的な感染が始まる前の雰囲気も、既に忘れられつつあるような……。

川上:いろんなできごとのなかでも、感染症は特殊だと思います。精神科医の斎藤環さんが仰ってましたが、震災、災害はいつどこで起きたのかがわかるから、メモライズができる。その意味で、感染症は放射線の被害と似ているところがあって、始まりや終わりが曖昧なんですよね。ゆるやかにみんなが当事者であり、どこにあるかも、いつ感染するかわからない。その特殊な在り方が催眠みたいに作用するところもあると思います。「だいじょうぶだよ」と言われたら「そうかな」と安心して、「危険だ」と言われると怖くなる。人間の曖昧さに、ものすごく入りこんでくる。『春のこわいもの』にも、それが何か名指しできない茫洋とした怖さがあると思うし、春の催眠作用みたいなものも。大きなことも、小さなことも、世界は怖いものだらけだと思う。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「著者」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる