アントニオ猪木と倍賞美津子 1億円の結婚式、借金、浮気、離婚……ビッグカップルの仰天エピソード

 
 2022年10月13日、アントニオ猪木の通夜が行われた。戒名は「闘覚院機魂寛道居士(とうがくいんきこんかんどうこじ)」。猪木の代名詞でもある「闘魂」や本名の「寛至」などが刻まれた猪木らしい戒名である。

 アントニオ猪木死去が報じられたとき、悲嘆に暮れる中でふと頭によぎったのは、ミッコこと、女優・倍賞美津子のことだった。プロレスファンであれば今さら説明するまでもないが、猪木の元妻である。

 古今東西、アスリートと女優のビッグカップルは数あれど、アントン&ミッコほど華があってお似合いの夫婦は他にいないと思っている。

 倍賞は、猪木のことをアントンと呼んでいた。アントン&ミッコのエピソードはどれも素敵で、我がことのように嬉しい気持ちになったものだ。

倍賞美津子なくして、黎明期の新日本プロレスは存続しえない

 1960年代後半、ジャンルは違うものの若手の有望株として注目されていた2人。1971年3月26日、猪木は倍賞を連れて遠征したロサンゼルス・オーデトリアムで、NWA認定ユナイテッド・ヘビー級チャンピオンを獲得し、凱旋帰国した東京国際空港内で2人は婚約を発表する。そして11月2日、京王プラザホテルで1億円をかけた豪華な結婚式が行われた。

 式を挙げた翌年の1月、猪木は新日本プロレスを旗揚げ。だがテレビ放映がつかない、外国人レスラーの招聘ルートも乏しい中での船出はとても厳しいものであった。

 猪木は朝から晩までスポンサー捜しに奔走し、世田谷上野毛の自宅を道場に改装。倍賞も資金面で補助し、宣伝カーのウグイス嬢の吹込みまで手伝ったという。倍賞なくして、黎明期の新日本プロレスは存続しえなかっただろうし、倍賞の下支えがあったことで、猪木も数々のチャレンジができたのではないか。

猪木自伝から知る、2人の馴れ初めと別れ

 そんな2人のエピソードは、これまで出版されてきたアントニオ猪木の自伝・評伝で知ることができる。

『新・燃えよ闘魂 アントニオ猪木自伝』(東京スポーツ新聞社 1981年7月発刊)


 1975年に出版された初の猪木自伝『燃えよ闘魂』の改訂版。「妻・倍賞美津子との出会い」という見出しで、出会いから結婚までの詳細が綴られている。離婚は1988年なので、この時点では仲睦まじいエピソードばかりだ。

 出会いは、猪木の先輩プロレスラーにあたる豊登からの紹介。猪木と倍賞は、最初グループ交際の友人同士だったが、やがてお互い惹かれ合っていく。猪木が倍賞に惚れた理由は「明るくて、心身共に健康なところ」と語られている。波乱の人生を、この女性なら一緒にどん底に落ちても、笑顔で乗り切ってくれそうだと。

 話題となった1億円の結婚式に関しては、もともとハワイで親しい人だけを呼んで……と考えていたようだが、当時所属していた日本プロレスから、宣伝も兼ねて「派手にやれ!  費用は負担する」と後押しされて盛大に行われた。だが、直後に日本プロレス首脳陣と揉めて団体を飛び出す羽目に。1億円の費用は払ってもらえないことになり、借金が残った。

 ただ、そこで倍賞は怒るわけでもなく、返済費用の一部を負担。「あんたは本当におっちょこちょいね。あれを払ってもらってから、喧嘩をすればよかったのに」と笑い飛ばし、新日本プロレスを旗揚げする際にはゼロからのスタートだったにもかかわらず「よーし、いいじゃない。あんた1人くらいわたしが食べさせてあげるよ。男は思い切りが肝心よ。あたしたちの力でやりきりましょう」と発破をかけたのは賠償のほうだったのだから、つくづく豪快な女性である。

『猪木寛至自伝』(新潮社 1998年5月発刊)


 1998年4月に行われたアントニオ猪木の引退試合のすぐ後に発刊された自伝。生い立ちから新日本プロレス黄金時代、政治家、そして引退までが綴られる。

 倍賞との結婚にも触れられているが、こちらの自伝では、日本プロレスからの提案ではなく、猪木本人が1億円結婚式をやってやろうと決めたとある。

 週刊誌の見出しが「倍賞美津子とアントニオ猪木が結婚」の順番だったことに憤慨し、世の中がプロレスをマイナーに見ているのなら、いっそ超豪華な結婚式をあげてやろうと。
むしろ日本プロレス側は「結婚式にそんな金をかけるなんて」と諫めており、それを猪木が説得したと記載。『新・燃えよ闘魂』と内容が食い違っているが、真相はどっちなのだろう。

 そして、離婚時のことも赤裸々に語られる。80年代、アントンハイセルという事業にお金をつぎ込み巨額の借金をかかえた猪木は、徐々に倍賞とすれ違うようになり、夫婦喧嘩も多くなってきた。

 テレビ視聴率の下降や、体調不良、そして借金の取り立てという現実から逃げたくて、猪木は家に帰らずに遊び歩いていたことも。女性との浮気が写真週刊誌に撮られ、一方倍賞も萩原健一とのスキャンダルが報じられている。決定打となったのは、猪木の2度目の浮気発覚。

 外国から知り合いの女性が猪木を訪ねてきたとき、一晩を共にした猪木。だがそのとき倍賞は猪木の帰りをずっと待っていた。雨の中、傘もささず、ずぶ濡れになって。「一緒にいることは、もうお互いのためにならない」離婚を切り出したのは、倍賞のほうだったという。

 猪木の喪失感は相当だったようで、倍賞に宛てて、出す気のない手紙を書いたこともあったという。離婚後、2人が再会したのは、離婚から20年経って、娘の寛子さんの結婚式でのこと。「何も変わってないわね」と賠償から言われたが、どういう意味だろう? と首をかしげる猪木。良い意味か、悪い意味なのか、測りかねている猪木が微笑ましい。きっと、両方の意味のはずだ。

別れたあとも、交流があった猪木と倍賞美津子

 離婚後、倍賞は猪木のことを「戦友」と言い、猪木は「魂の友人」と表現した。
新日本プロレス創立30周年記念大会の際に、倍賞美津子がサプライズで登場してファンを驚かせたが、それ以上に照れまくった猪木の表情が印象的だった。

最後に、もう1冊紹介したい。

『アントニオ猪木』(新潮新書 2022年4月発刊)


 自伝ではなく、プロレス&格闘技ライターの瑞佐富郎氏による評伝。この本にもアントン&ミッコのことが書かれているが、非常に気になる箇所を発見した。

 倍賞が新日本プロレス創立30周年記念大会でリングにあがったことを、雑誌『SAY』(2003年1月号)で語っている。「あのときの私ってきっとすごくいい顔をしていたと思う。人を一生懸命愛した記憶って、たとえそれが別れにつながっても、素晴らしいことなんだなあって思いました」

 そして、こう続く。

 猪木は2021年1月より、大病で長期入院。1度の転院はあったが、そこに何度も見舞いに訪れる影があった。倍賞美津子さんだった。

 この内容が事実なら、猪木が亡くなる直前、倍賞は見舞いを続けていたということだ。
2022年10月14日の時点で、倍賞の猪木に対するコメントは出ていない。

 猪木は倍賞を含めて生涯4回結婚しており、晩年はカメラマンの橋本田鶴子さんと結婚し、彼女が献身的に尽くしていた。その田鶴子さんは、2019年8月27日に膵頭のがんで亡くなっている。

 現在、倍賞の胸の内を知ることはできないが、猪木と倍賞は、離婚後も心の奥底でしっかりと繋がっていた……筆者はそう信じている。

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