『怪と幽』編集長が語る、妖怪と怪談それぞれの楽しみ方 「お化けに真摯に向き合わなければならない」
髪の長い女が部屋の隅を四つん這いで……
――『幽』時代の印象的な出来事は。似田貝:創刊号のころは雑誌作りをまるで知らず、校了というものも理解していなかった。校了は最後に編集長がやる仕事だと聞いていたので、自分は休みをとったら怒られましたね。「行かなきゃいけないんだ、その日」と知った(笑)。現在なら出社しなくたってリモートワークでどうにかなりますけど。当時はそういうわけにはいきません。『幽』2号あたりでカメラマンさんに「編集者としての自覚が足りない」といわれ、そこで初めて自分は編集者として見られているのだと気づきました。やがてバイトから契約社員を経て、社員に。『幽』の号を重ねるごとに、勉強してゆきました。
印象的な出来事といえば、心霊スポットとか怖いところにもよく行ったんですよ。
――お祓いとかしてもらうんですか。
似田貝:ほとんどしません。するのは『四谷怪談』のお岩さんにかかわる時だけ。私たちはお化けで商売させてもらっているのだから、祓うのは逆によろしくないと思うわけです。
それで、『幽』の特集内に「怪談巡礼団」という企画があり、作家の加門七海さんと東さんが特集にちなんだ場所を訪ねます。私も毎回同行していたわけですが、金沢取材の時に寝坊したんです。加門さんたちが上野駅から電話した時、私はまだ布団の中でした。すぐさま飛び起きて、結果的に1時間遅れで金沢に着きました。当然、怒られます。ちなみに、加門さんはお化けが視える方なんですけど、ふだんは気配を感じても詳しいことはいいません。話す時は、すべて終わった後です。でもその日は、ロケ後にチェックインしたホテルで加門さんに「似田貝君、部屋、交換して」といわれました。嫌な予感がしましたけど大遅刻した私に拒否権はありません。「赤ちゃんみたいな四つん這いの小さな女がいる。それが嫌だから交換して」と、いつもなら絶対にいわない具体的なことをおっしゃるんです。私に霊感はありませんけど、いわれると嫌でしょう。想像しちゃいますよね。髪の長い女が部屋の隅を四つん這いでもぞもぞ動く姿が頭に浮かんで眠れない。加門さんは「ダメだと思ったら電話してくれていいから」といっていたけど、夜中に連絡するのははばかられる。エロいことがお化けを祓ってくれるという話を聞いたことがあるから、有料チャンネルをつけようとしたんですけど、加門さんはすぐ近くの部屋で寝ているので、これもためらわれる。酔った勢いで寝ちゃおうか、いや明日は早くから運転しなきゃいけないし、呑むわけにはいかない。悶々と怖いまま……なんにも起きなかった。
――えっ、結局なにもなかったんですか(笑)。
似田貝:ありませんでした。すみません。あとは、東さんが怪談会などで何度か語っていますけど、『幽』4号の泉鏡花特集で戯曲『夜叉が池』の舞台になった山に登った時の宿で、私、加門さん、東さん、カメラマンさんにそのアシスタントさんの5名全員が、それぞれ怪しい体験をしたんです。私もナニかを視ました。お化け体験はその時くらいですね。また、『幽』21号では創刊10周年を記念して、加門さんの発案で河童を釣ることになり、目撃者たちの記録が残る岩手県の岩泉町に行きました。好物とされるキュウリの形のルアー、尻子玉をとる妖怪だからお尻型のマネキンに釣り針を仕掛けた道具を作って夜中の川にむかいました。町役場にちゃんと許諾をとってやったんです。
――許諾のとり方がよくわかりませんが。
似田貝:河童を捕獲したいんですって素直に話しました。はじめは半ば冗談でしたけど本気でやらなければ面白くないから、先ほどのルアー等も日本物怪観光という妖怪造形ユニットの天野行雄さんに作ってもらいました。実際に河童がいることを想定して細かく準備を進めているうちに、だんだん、本当に捕まえちゃったらどうしようと不安になりました。捕まえた河童が怪我したときにために河童の膏薬も準備しましたよ。『幽』では怖いスポット、怪しい場所、いろいろなところに行きましたかど、なんだかんだで楽しい思い出ばかりです。敬愛する新倉イワオさんや山田野理夫さんにお会いできたことも大切な思い出です。
――2019年に『怪』と『幽』が合併し『怪と幽』になったわけですが、こういうことは雑誌ではなかなかないでしょう。
似田貝:合併した理由のひとつには両誌とも徐々に売上げが落ち、従来の形をとれなくなったからですけど、『怪』にも『幽』にもほかでは代えがたい連載やコンテンツがあった。だから、最後のチャンスで『怪』と『幽』を合体させれば、読者は2倍になり売上げも増すのではないか、という考えが社内にあったようです。もとは別の版元だったのが合併で2誌ともKADOKAWAになったのですから、ふたつもいらないという気持ちは、わからなくもない。ですけど、ひとつにしてしまおうとは乱暴な話で。「どう思う?」と訊かれたことがあったので、「混ぜるな危険」と反対したんですね。「それだけよくわかるなら、お前が編集長をやれ」といわれ、やることになりました……。
――京極さんは、『怪と幽』創刊号の東さんとの対談などで、妖怪と怪談では見る角度が違うといわれていましたが、似田貝さんとしては違いをどうとらえていたんですか。
――うーん、難しい……。両者とも怪しい現象ですけど、怪談は怪しい現象をそのままに味わい、怖さを表現する手法であり文芸じゃないでしょうか。妖怪はどんどん言葉の概念が変わっているので、人によって「妖怪」という言葉のニュアンスが違います。キャラクター化してしまった側面も強いし。『怪』創刊の頃は妖怪の取材だと伝えると、先方に嫌がられたそうですけど、今では滅多にありません。逆に喜ばれたりもします。20年以上経って市民権を得た代わりに、言葉が変化してしまったんでしょう。例えば、この数年間、新型コロナウイルスが世界中で感染拡大していますけど、歴史上では何度も疫病が流行しました。ウイルスを知らない時代の人々は、病気の原因を鬼やお化けとしてビジュアル化させてきました。そうすることで「原因不明」ではなくなるんですよね。妖怪にはそういった役割もあると思います。怪談は逆に「原因不明」を生々しく楽しむイメージがあります。
――『怪と幽』の創刊ではどういう風にやっていこうと考えたんですか。
似田貝:とにかく悩みました。半年ほど悶々と。創刊号の取材では、京極夏彦さんや東雅夫さんをはじめ荒俣宏さんにも叱咤激励されました。「できるわけないだろう」って叱咤が強めで。私だって「そんなのわかってますよ!」という想いでしたけど、やるしかない。
ただ、『怪』及び『幽』は本来の役割を達成したのでは、と考えました。『怪』創刊時は「妖怪ってなに? 本当にいるの?」ってところからでしたが、今はだいたい通じます。『幽』はないがしろにされていた怪談を再興しようとしたわけで、最近は有望な書き手や語り手がいっぱい出てきている。また、『怪』は水木しげるさんの雑誌でした。水木さんが2015年に亡くなった後は、サッカーでいうロスタイムみたいなものかも。一方、『幽』は東さんありきの雑誌。水木さんでも東さんでもない私には、どちらの雑誌も作れません。だから、『怪』と『幽』が拓いた土壌でできることを新たに探すしかないと考えました。「お化け好きに贈るエンターテインメント・マガジン」という明確な主張のない、モヤモヤしたキャッチフレーズは、はじめ「なにがいいたいんだ」といわれたんです。結局、お化け的なものをどんどん楽しもうという『怪と幽』のスタンスは、そのフレーズ通りになっているのかな。
ちょっと自慢しますけど、『怪と幽』は創刊から部数は落ちておらず、徐々に増えています。『怪』は妖怪、『幽』は怪談を強く推し出していたのに比べ、『怪と幽』は両方を合わせてモヤっとした言葉でくくることで、むしろライトなファンが入ってきやすくなった気がしています。