諸葛孔明の伝説、実は盛られすぎ? 『パリピ孔明』ヒットで考える天才軍師の虚像と真実
孔明の息遣いさえ聞こえる「出師の表」
フィクションの『三国志演義』では、蜀の南方にいる異民族と戦い、ゾウ部隊などをやっつける血沸き肉躍る場面。だが、歴史書はシンプルだ。南方を「ことごとく平定した」で終わっている。ただ、これを機に孔明はアグレッシブになる。近年の研究では、平定した地で銅資源を得たのではないか、という説もある。
とにかく、彼は宿敵である魏との戦いを決意する。出陣するにあたって、皇帝である劉備の子、劉禅に奉ったのが「出師の表」という文章。史書『三国志』は異例の形で、その全文を掲載してくれている。本物の孔明が書いたであろうものだ。彼の息遣いさえ聞こえる。
「先帝(劉備)は道半ばで亡くなってしまいました。今、天下は3分し、この国は疲弊しています。危急存亡のときです」
そう、孔明ははじめる。でも、劉備が立派にやってくれたおかげで、人材は育っていますよ。だから、大丈夫です。そう続ける。
「私は何もない人間でした。でも、先帝が3度も私の庵を訪ねてくださり、私は感涙しました。これに報いようと一生懸命生き、21年が過ぎました」
そんな意味の言葉を彼は吐き出す。
「今、南は平定され、軍も充実しました。軍を北の魏に向けましょう」南方平定で得た何かが、蜀を強くしたのだろう。そして、最後に孔明は言う。
「先帝に言われたことを思い出し、感激にたえません。今、遠い地(魏)へ向かう私は涙が止まりません。言葉がありません」
まあ、スゴイ。死んじまった大将相手に、ここまで言える人はいない。
言うだけではない。彼は言葉通りに生き、国家のすべてに目を行き届かせ、魏と何度も戦い、それが故に過労死のような形で戦陣の中に死ぬ。葬られたのは、劉備と一緒に曹操を破った思い出の地、定軍山。これは孔明本人の遺言だ。
劉禅には「桑畑とやせた田があるので、家族はそれで生きていけます」と生前に伝えていた。同時代の功成り名遂げた人の記述と比べても圧倒的に少ない遺産。史書の中でさえ、孔明はすでに異様なのだ。
実は、『三国志』には陳寿が記したものだけでなく、その150年ほど後に裴松之という人が付けた異聞や他書から引いた注がついている。
それを読むと、むしろ笑える。孔明の死後数十年にして、孔明がそんなに偉大だったのか、という議論が、もう巻き起こっているのだ。
「戦争したけど、勝ってないじゃん!」 「言うほど、確かな功績ないやんけ!」
だいたい、そんな風に孔明はディスられる。でも、敵味方関係なく、彼を知っている連中が先に孔明を称える。
「あんな弱小国背負って、無力の皇帝守って必死に生きていくヤツいるかい!」
そんなことを敵国の人さえ言う。実は、真っ先に言ったのは孔明のライバルだった司馬懿。彼は孔明の死後すぐ、撤退した蜀軍の陣構えを視察して叫ぶ。
「天下の奇才だ!」
その司馬懿が、三国を統一した司馬炎のおじいちゃんだ。孔明は同時代を生きた人からしてすでに、スーパーマンだったわけだ。
だからこそ、孔明の諡号(死後に送る名)は「忠武侯」という。まごころがあって、そのくせ、戦にも強い人でしたよ、というような意味でいいのだろう。
そうそう、孔明はフィクションの「石兵八陣」ではないが「八陣の図」なるものを考案していたことは史書にも記載がある。風や砂が自動的に舞うものだったとは思えないが、とにかく、彼は考案していたそうだ。詳細は残っていない。