第166回芥川賞は混戦の予感? ボディビル小説から古書にまつわる物語まで候補5作品を徹底解説

芥川賞候補作を徹底解説

砂川文次『ブラックボックス』

 ちゃんとしなきゃいけないのも分かる。でもちゃんとするっていうのが具体的に何をどうすることなのか、サクマにはまだよく分からなかった。走っている時だけ、そこから逃れられる。

 以前に候補になった『戦場のレビヤタン』(『文學界』2018年12月号)、『小隊』(『文學界』2020年9月号)など、著者自身の自衛隊での勤務経験を活かした作風から転じて、今作では新たな一面を見せている。

 本作は都内を自転車で走り回り荷物を配達するメッセンジャーを描く労働小説として始まる。主人公のサクマは、自らの仕事に誇りを持ちつつも、社会保障もなければ、ケガをしたら最悪の場合はクビになるかもしれない、という不安定な雇用形態に苦悩する人物だ。

 というように本作では新たな題材を扱いながら、じつはこれまでの砂川の持ち味をしっかりと活かしていて強い。それはスローモーション的な細密描写である。以前の作品ではとりわけ戦闘場面に惜しむことなく注ぎ込まれていたその力量がいかんなく発揮された本作冒頭、サクマがベンツとのアクシデントにより横断歩道で転倒するシーンは圧巻だった。

 この場面でいかんなく発揮された描写力は、作品中盤にもう一度、とても悲痛な場面で発揮されることになる。その場面を機に、作品のムードはがらりと変わる。サクマが自転車を漕ぐことで置き去りにしたと思っていたさまざまなこと、とりわけ自分自身に向き合わなければならなくなるのだ。だがこの転調後の展開は、ややクラッシックな「文学」すぎると思わなくもない。逆に言えば、王道ゆえに評価される、ということももちろんありえる。そのあたりは選評で確かめたい。

乗代雄介『皆のあらばしり』

 発芽せんでも種は種や。日陰の方に転がって誰も気付かんでも、間違いなく芽を出す力を秘めてそこにあんねん。

 乗代もまた、過去に候補になった「最高の任務」(『群像』2019年12月号)、「旅する練習」(『群像』2020年12月号)の2作を含む諸作により、「描写」にこだわってきた作家と言えるが、本作では「描写」はやや控え目で、どちらかといえば「会話劇」としての面白みが強く打ち出されている。

 歴史研究部に所属する「ぼく」は栃木県・皆川城址の調査中、胡散臭い関西弁をあやつる男と出会う(ちなみに、この男は乗代の過去作であり、川端康成の手紙をめぐる一種の謎解き小説「本物の読書家」に出てきた人物を思わせる)。たんにいかがわしい存在ではなく、会話の端々に教養が垣間見えるこの男はいわば、これまで乗代の作品で、姪・甥にとっての知的なメンターとして描かれてきた叔母・伯父の役割を果たしていると言えるだろう。男が語る虚実交わる話に「ぼく」は困惑しながらも、男とともに歴史のなかに存在した可能性がある古書「皆のあらばしり」の痕跡を辿り始める。

 まず、この二人の知的なかけひき、騙し合いが読んでいてめっぽう楽しい。そして、残された痕跡を辿ることで新たな歴史的資料に迫っていく本作は、男から「ぼく」が「名探偵コナン」になぞらえられるとおり、本作はミステリー的な魅力をもってもいる。つまりエンタメ作品としても単純に面白いのだ。作中に現れる男と同様、背後にあるのが悪意なのか、サービス精神なのかはわからないが、読者を手玉に取らせたら、乗代の右に出る者はいないと思う。

 むろん、乗代はこれまで繰り返し作品をつうじて、小説とはそもそも誰が何のために語っているのか、という点を曖昧にせず、テクストが存在する理由を明確にし続けてきた作家である。だから歴史を題材としながらも、本作は乗代にとっての小説論としての読み応えもある。

 正直、今回は混戦という印象を抱いた。となると、過去作との比較のなかで幅を見せられているぶん、ベテラン勢が有利になるかもしれない。好みだけで受賞予想するなら、乗代雄介(と九段理江)です。

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