「文學界」編集長・丹羽健介が語る、実験場としての雑誌 「文芸誌は絶えず変わっていく文学の最前線」
才能ある書き手にもっと現れてほしい
――具体的にこのバンドというイメージはありますか。イギリスのバンドとか。
丹羽:なぜバンドといったかというと、編集長を命じられた際、「他の編集部員は誰をつけてくれるんですか」と訊いたんです。それに対し上司から「大丈夫。ビートルズみたいなメンバーだと思ってくれ」といわれたのが頭に残っていて(笑)。ビートルズなんておこがましいですけど、同じ4人組だからなんとなく。ビートルズと違って年齢はバラバラですが、そこが強みになっていると思います。年齢的には2番目に若い浅井茉莉子がいなければ実現しなかった企画もいっぱいありますし。
――芥川賞になった又吉直樹『火花』を担当した編集者ですね。
丹羽:村田沙耶香さんの『コンビニ人間』の担当でもあります。ビートルズでいえばポール・マッカートニーですね、浅井は。重版した3月号の國分功一郎さんと若林正恭さんの対談も、僕からは決して出てこない企画。毎号4人みんなで作っていく感じです。
――で、編集長はジョン・レノン。
丹羽:いえ、僕はリンゴ(・スター)です。ビートルズは男性4人ですが、誌面のジェンダーギャップは意識しています。方針というか自戒として。編集長になる前、「文學界」の特集について知り合いの女性の編集者から「執筆者が全員男ですね」といわれハッとなったことがありました。ふだん書き手の性別を考えることはありませんが、自分も男だから、無意識に男性中心的な考えになっていることがある。女性を含む編集部全員の意見をとり入れて、偏りを極力なくしたいと思っています。
――又吉直樹氏が一番目立った形ですけど、それ以降も異分野の才能を誌面に起用する一方、文學界新人賞がある。新人を見出すことについてはどう考えていますか。
丹羽:小説の書き手ということでいうと、年1回の文學界新人賞はもっとも大切な新人発掘の場ですが、それだけでは全然足りない。才能ある書き手にもっと現れてほしい。言葉を扱う芸術である以上、演劇、詩、歌詞を伴う音楽、お笑いなどの異分野に小説にも才能を発揮する人がきっといるはずです。文芸編集者って隙あらば「小説、書いてみませんか」という人が多い気がします(笑)。もちろん、新人賞でデビューした作家に続けて良い作品を書いてもらうよう、編集者が二人三脚でとり組むのも大事な仕事と考えています。
単行本とは違う文芸誌の楽しさ
――昔からある話ですが、純文学とエンタテインメント小説の違いはどう考えますか。
丹羽:ふだんあまり考えたことがなく、よく定義を聞かれるんですが、納得のいく説明はできたことがないです。面白いという感覚の質の違いかとも思いますが。山田詠美さん、桐野夏生さん、吉田修一さん、島本理生さんなど、越境して書いている人もたくさんいる。純文学とエンタテインメント小説の違いは作品や作家の特性というより、どの雑誌に書くかで分けられている感じがします。
――「文學界」では対談などに登場する人も多岐なジャンルにわたり、一昔前とは違います。
丹羽:嬉しいのは、例えば「國分さんと若林さんの対談を目当てに買ったけど、一緒に載っている李琴峰さんの小説(「彼岸花が咲く島」)も読んだら面白かった」といってくれる人がいて、読者にとって偶然の出会いの場になれること。単行本とはそこが違います。
――最近は「アートとことば」、「JAZZ×文学」、「藝能文學界」といった特集がありました。
丹羽:「JAZZ×文学」はずっとやりたかった企画で、なぜこの時にやったかという理由はとくにありません。僕はあらゆることを文学に結びつけて考える癖があって、好きななにかで全部を語る人がいるじゃないですか。ロック音楽を全部、「レッド・ツェッペリンでいうと何枚目」とツェッペリンにあてはめて語る人とか。いませんかね? 極端な話、 “なにか×文学”は何をあてはめてもできる。ただ、企画者が対象に強い気持ちを持っていないとだめだと思う。「JAZZ×文学」は想像した以上に好評で、数字もよかった。でも、だからといって、こういうことも、ああいうこともやろうと器用にはできません。
――昨年からは新型コロナウイルスの問題もありますが、時事性、社会性、あるいはノンフィクションを誌面にとりこむことについてはどうお考えですか。
丹羽:月刊誌なので1カ月に1回出せるフットワークの軽さを活かしていければと考えています。同時に小説は、作家もその時代を生きている以上、直接的に書くのでなくても、作品に社会性は出てくる。一〇〇〇号記念特大号でいろいろな方に小説を書いていただいたのですが、面白かったのはコロナという言葉は出てこなくてもコロナ禍の日本が色濃く反映された作品が多かったこと。そうしてくださいと頼んだわけではないんですが、各々の作家が時代を感じとって自分の中のプロセスを通して書かれたのだと思います。今、社会でこういうムーブメント、事件があるからと直接わかる形ではない社会状況の小説への反映のされかたに興味があります。
文芸誌における批評の位置づけ
――最近、文芸誌における批評の位置づけが難しいとよくいわれます。2月号の「21世紀の日本文学」座談会では多くの論点で対立があり、安藤礼二氏がゲラで批判を挿入し鴻巣友季子氏も加筆して応戦していました(江南亜美子氏も出席)。
丹羽:期待を上回る熱い座談会になりました。お三方には本気で議論をしていただき、感謝しています。批評を文芸批評と広い意味での批評に分けた場合、自分は後者に強く興味があります。僕は東浩紀さんと同世代で、彼がアニメやゲームを文芸批評のタームで論じたのが新鮮でした。あらゆるものが対象になりうるのが批評の面白さ。3月号から北村匡平さんの「椎名林檎論 乱調の音楽」が始まりましたが、自分の考える批評の中心は、わりとそういうところです。先日観た映画『花束みたいな恋をした』で小説がサブカルチャーの一つとして扱われていたのが面白かった。というより、もうずいぶん前からハイカルチャーとサブカルチャーの区分けに意味がなくなり、フラットな状態になっていて、そういう区分けがさらに無くなることで批評は今後もっと面白くなると感じています。
――いろんな事象に対する批評がある一方、作品評があります。最近、また注目されている新人小説月評もそうです。この欄に関しては、3月号まで担当者だった荒木優太氏のゲラ段階での文言削除をめぐり編集部と意見が衝突し、降板を告げられたことを本人がツイートしました。このインタビュー収録時点ではまだ進行中の案件なので詳細まで掘り下げませんが、コーナーの位置づけをどう考えているかは聞かせてください。芥川賞候補となりうる新人の作品を扱うコーナーとされているので、他誌の時評とはみられかたが違いますよね。
丹羽:新人小説月評と新聞など他媒体の文芸時評との大きな違いは、芥川賞との結びつきではなく、その月に文芸誌に発表された新人小説全作を論じることだと思っています。他媒体では評者が今月はこれとこれがよかったと評する対象を選ぶのに対し、全部に触れる。
――2人の評者でいわゆる5大文芸誌に掲載された新人の小説全部をカバーする形ですね。場合によって「小説トリッパー」など他誌の作品もピックアップしますが。
丹羽:新人の全作品というのは大きいことで、この欄でしか評されない作品もあります。だから、文芸誌に書く小説家は称賛にせよ批判にせよ、この新人小説月評をずっと覚えているということが多いのです。
文学の最前線であり実験場
――最近、一般論として、文芸誌の書評に批判的な文言をみなくなったといわれます。そういう傾向のなかで批判が載るのは賞の選評くらいでしょう。新人小説月評も選評のような読まれかたをしている面はありますし、ことさら目立つ一因になっている気がします。
丹羽:基本的に書評欄は、編集部と評者がその本を評価している前提で載る。だめだと思う本ならとりあげないと思います。一方、新人小説月評は評者が必ずしも評価していない作品も論じる。そういう欄は他にあまりない。批判の有無というのは、いつに比べての話でしょう。例えば、江藤淳が文芸時評をやっていた時代でしょうか。
――ふり返ると、渡部直己氏のチャート式の時評、佐々木敦氏の絶対安全文芸時評、また時評ではないですが福田和也氏の『作家の値うち』など、文芸批評で話題になりがちな採点性、網羅性などをコンセプトにした批評形式がいろいろ試みられました。大森望氏と豊崎由美氏の『文学賞メッタ斬り!』シリーズという企画もありました。一方、ゼロ年代以降、批評家より書評家が増え、全般的な傾向として褒めレビューが多くなったといわれます。
丹羽:小説を並べて採点するような形式の批評は当時自分も面白く読んでいましたが、振り返ると、批評家のユニークなキャラクターによって成立していた部分が大きかった気がします。そういう形式がはたして次世代の批評に何かを受け継いだのか、ちょっとわかりません。
――批評の新しい書き手を見出すことも課題だと思いますが、それこそ新人小説月評は、文芸に関して新進の書き手が担当するコーナーになっていますよね。
丹羽:最近だと小川公代さんのように新人小説月評の執筆後に他の文芸誌にも批評を書くようになった方がいます。東浩紀さん、千葉雅也さん、そのほか現在活躍中の多くの批評家が担当していました。
――新人小説月評は今後も2人で新人の全作品をとりあげるスタイルは崩さないですか。
丹羽:はい、複数の視点があることが大事だと思っているので。
――先に触れた「21世紀の日本文学」座談会でも日本の小説が近年、海外で評価されていることが論点になっていましたが、この点はどうとらえていますか。
丹羽:日本の小説家の作品が海外で評価されているのは素晴らしいことです。一方で、文芸誌の現場は毎号手探りでやっていて、それが読者にどう読まれるか、ましてや翻訳されて海外でどう評価されるかまではとても考えられない。考えているのは、今までの流れになにか一石を投じたり、違う試みをしたいということです。文芸誌は絶えず変わっていく文学の最前線であり、いわば実験場です。毎号いろいろなものが載っていることが大事ではないかと思います。