子育て、出産、ペット、セックス依存症……読まれているのに語られない、コミックエッセイの世界
コミックエッセイ(エッセーマンガ)というジャンルがある。
作者自身またはそれをモデルにした人物の視点から、自分が体験したこと、感じたこと、考えたことを綴っていく、身辺雑記的な内容のマンガだ。
有名どころでは『腐女子のつづ井さん』や『中国嫁日記』、もっとメジャーどころでは『ちびまる子ちゃん』もコミックエッセイだとする人もいる(フィクション度合いをどのくらい認めるかにとって解釈が若干分かれるが)。
コミックエッセイはおおよそ80年代にジャンルとして成立し、90年代以降たくさん書かれるようになったとされているが、SNSが発達して以降は、このジャンルのマンガはTwitter、Instagram、pixivなどウェブ発で大量に生まれ、無数に書籍化されている。ヒットした単行本は数知れず、LINEマンガのランキングなどを見ても、マンガアプリ上でも一定の人気がある。
ところが、たくさん描かれて読まれているのに、コミックエッセイはジャンルとして語られることはあまりない。マンガのレビューを掲載する媒体で個別の作品が取り上げられることも、少年マンガや女性マンガ、青年マンガと比べると少ない。
ここではざっくりどんなタイプの作品があるのかを最近の新刊を紹介しながら整理したうえで、なぜ「読まれているのに語られない」のかについて少し考えてみたい。
日常の「あるある」もの――子育て・犬猫・コミュ力の悩み
コミックエッセイは極論すると2種類しかない。「日常の『あるある』を描いたもの」か、「特殊な体験を描いたもの」か、だ。
日常あるあるの定番は妊娠出産・子育てもの(その前段の婚活もあるが)、ペットとの生活(特に犬や猫)、そしてオタクの生態や、コミュニケーション能力に対する悩みを描いたものだ。
ごく最近の話題作を挙げると、たとえば妊娠出産・子育てものなら、0歳児の1年を記録した倉田けい『365日アカチャン満喫生活』、子育ての猛進をめぐる夫婦の対話や2人目どうするか問題などまで描いたこんぶ『こんぶ日記』、直島暮らしの子育てライフを描いたまつざきしおり『みーたん!』など。ペットものならふじひと『じじ猫くらし』、efrinman『エフ漫画 ゴールデンレトリバーのエフとコメとの楽しい暮らし』など。コミュ力に悩むものなら、水谷緑『男との付き合い方がわからない』などがある。
これらは「わかる!」という共感をベースにしながら、一部の作品は「こんなふうにしてみたい」という憧れや、「これから自分に起こること(出産、子育て等)に備えておこう」という予習的な読まれ方をしている。
特殊な体験を描いたもの
コミックエッセイのもうひとつの柱は「特殊な体験を描いたもの」だ。
話題になったものだと、永田カビの『さびしすぎてレズ風俗に行きました』や、津島隆太の『セックス依存症になりました。』など、多くの人はなかなか垣間見ることのない世界を実体験に基づいて書いた作品がこのタイプだ。
ごく最近書籍化されて予約ランキング上位に来た作品には、たとえば、普通に生活しているだけで変なことに遭遇しまくる、さやま『さやまの日常』、詐欺に遭って家庭崩壊していくなか青春時代を送った体験を綴った虹走『ボクと壊された初恋 ゲームに、女子に、チャットに夢中だったあの頃』、せせらぎ『旦那が突然死にました。』、ウラ『引きこもり新妻』、中原るん『弟よ、デブを誇れ。』などがある。
こちらは好奇心、未知のものへの興味関心から読者は手に取る。
コミックエッセイはなぜ読まれているのに語られないのか?
ではどうしてコミックエッセイはたくさん読まれているのにあまり語られないのか?
少年マンガや少女マンガ、エロマンガの歴史は語られ、大学でも研究されているにもかかわらず、コミックエッセイの歴史をまとめた本はおそらく一冊も出ていないし、マンガの研究論文でも扱われることはまれだと思われる。
これはおそらく、コミックエッセイ――とくに日常あるあるものが、圧倒的に「今」を向いているからだ。
子育てやペットもののような日常あるあるエッセイは、「今」同じようなシチュエーションにいる人、または近い過去に似たシチュエーションにいた人が読む傾向がある。子育てものなら、子育てがとっくに終わった人や、子どもがいない・持とうともしていない人にはそれほど刺さらない。だから読み手は、作品のシチュエーションが読者自身(や作家)とは異なる第三者にオススメすることが少ない。特定層には深く刺さるのでヒットが生まれるが、その外側には広がりにくい。
そもそもSNS発のコミックエッセイは、構造上、個別の作品を通しての、作者と読者のコミュニケーションに閉じやすい。「あるある」が通じない人(子育てしていない人、ペットを飼っていない人)も含めて第三者に内容を伝えたり、論じたり、ジャンルとして俯瞰しようという「動機」がそもそも読者に生まれにくい構造になっている。個別の作品のレビューを書いたところで、あるあるへの興味・共感を持たない人には届きにくいのだ。
また、コミックエッセイにはその時代時代の体験が描かれているため、数年も経つとほとんどは読まれなくなる。たとえばスマホがある時代の子育ての悩みや楽しさと、ない時代の悩みや楽しさはまた別だ。ほとんどのコミックエッセイは「同時代に生きる人たち」に向けて描かれ、読まれる。
だから歴史を追って読むとか、名作が再評価されるとか、ひとりの読者が同じ雑誌や作家の作品を10年も20年も読み続けるいった少年・少女/女性・青年マンガでよくあるようなことが起こらない。「ジャンプ」を雑誌で読んでいたら、あるいはコミックスで複数作品読んでいたら「あの作品はこうで、この作品はこう。ここが違う」と自然と感じるだろう。しかしコミックエッセイはまとめて読まれるものではなく、「ジャンプコミックス」のような強い統一ブランドも基本的にはない。バラバラに読まれ、バラバラのものとして認識されやすい。