『13歳からのアート思考』著者が語る、ゆたかなものの見方 「自分で見たり、考えたりすることこそがアート思考」
社会の流れや文科省の号令と教育現場との齟齬
――授業をすると、中高生はどんな反応ですか?
末永:多くの生徒がおもしろがってくれて、私も授業するのがどんどん楽しくなっていって今のかたちになりました。生徒たちは「前の先生とはまったく違う」「美術はきらいだったけど、こんなにおもしろいなんて」と言ってくれますね。はじめは「この先生はなかなか何かをつくらせないから、不安になった。いつつくりはじめるんだろう?」と思うようですが、でも最後には「未来につながることを今学期学んだ」と。
――学習指導要領で謳われている美術教育はこういうことを大事にせよということに対してどんな意見をお持ちですか? 一応文科省としては「生きる力」とか「主体的・対話的で深い学び」を重視せよと号令をかけていると思いますが、そうはなっていない?
末永:おっしゃるとおり、本来は文科省としては「生きる力」や「主体的な学び」を大切にし、アピールしています。でも不思議なことに学校現場では私の実感としては自分が中学校のときに受けた教育から本質的には変わっていません。社会がこんなにも変わっていて、文科省の号令も変わったのに、です。教育は一番変わるべきものだけれども変化は一番遅いのかな、と感じています。
文科省が各学校に「こういうことを指針に教育してね」と示した「学習指導要領」には、すべての教科に通じる「総則」と、各教科ごとのものがあります。総則のほうには探究学習とも言える生きる力の大切さなど全体としての方向性が述べられ、各教科のほうには細かい指導内容が書かれている、という風に分かれています。美術であれば後者には絵と彫刻とデザインを教えなさい、といったことですね。そうすると、本来は総則があってこその細部なのに、現場では各教科の細かいところを重視して、総則のほうを大事にしない、という現象が起きている気がします。
――なるほど、いかにもありそうですね。学校の先生も細かい「正解」探しに必死というか。最近の中高生が、自分の中高時代と違うなと思うところは?
末永:レポートの課題を課したときに感じたのですが、自分のころは情報がないなか自分で考えたことを手書きで書くだけだったのに、今の子はパソコンを使って見た目にはすごく立派なレポートを書いてきます。でもよく見てみるとネットでたくさん情報が手に入るからか、8割方他人の意見なんですね。その人なりの考え方、意見は1、2割しか書かれていない。
もちろん「私の授業では見映えのよさでは評価しない、自分自身が考えたこと、探究したこと、プロセスを見ていくからね」と伝えているので、徐々に変わっていくのですが。
アート思考のお手本は「子ども」
――自分の力で考えないといけない度合いは昔より強まっているのに、放っておくと自分の力で考えない度合いが昔より強まってしまう、というのは由々しき事態ですね……。『13歳からのアート思考』には、「アートの見方は作家本人が決めると考えがち」「自分がどう感じたかよりも『作者はこう考えたんじゃないか』ばかりを大事にしがち」という問題、言いかえると「アートであろうと正解があるからそれを探す」という思考パターンの問題について書かれていました。なぜそういう思考法になってしまうのだと思いますか?
末永:今の教育のベースは18世紀半ばから始まった産業革命のときに生み出された、工場で効率よく働ける人材を生み出すためのシステムになっています。疑問を持ったり質問したりするのは非効率で、上意下達で「正解」に従ってやっていけばいい、正解をいち早く理解して実行する人が優秀だ、というものです。でも今は状況が急変するのが常態化したVUCAの時代と言われていて、昨日の常識は今日の非常識、自分で考えて答えを探さないといけないし、つねに変化に適応していかないといけない。でも教育のベースが変わっていないので、他人が与えてくれるのではない自分なりの見方、考え方が持てない人が子どもにも大人にも多いのだと思います。
――一方で、この本ではアート思考をするためのプロトコル(手順)が明確です。「興味のタネ」が「探究の根」「表現の花」に育てていくには、作品を観て気がついたことや感じたことをアウトプットする「アウトプット鑑賞」や、作品だけを観て自分でなにかを感じとったり、考えたりする「作品とのやりとり」、意図的にこれまでとは少し違った角度から作品を眺める「常識を破る鑑賞」、作品背景を知った上でそれらを自分なりに考えてみる「背景とのやりとり」をしよう、と。
あるいは章(授業)ごとに「授業前にあなたがとらわれていたアートの常識は?」「授業を踏まえて今はどのように考えますか?」「授業を通り越して考えられることは?」と手順を踏んでいきます。
つまりこれは、ただ「自分で考えてね」と言っても何も手がかりを与えないと正解をほしがる人たちたちは動けないから、プロトコルは示す。それに沿って考えていけばある程度自分なりの見方ができますよ、ということかなと思いました。ただ本当は思考のフレームワーク自体をそれぞれが作れたらいいですよね?
末永:そのとおりだと思います。手っ取り早く正解を探すのではなく、自分で見たり、考えたりすることこそがアート思考ですから、私自身はアート思考に決められた手順があるとは思っていません。書いたことはひとつの例でしかなく、必ずこうしてくださいというものではありません。
私はよく「子どもがお手本」だと言っています。先日、4歳の息子さんと8歳の娘さんがいるお父さんからいただいたメールのなかに、本の冒頭に掲載したモネの睡蓮の絵を家族でいっしょに見た、というエピソードが書かれていました。お父さんは先に解説文を先に読み、元気で虫取りが好きな息子さんは「絵の中には蛙とザリガニがいる!」と言い、少しませている娘さんは「モネの絵でしょ、知ってる」と言ったそうなんですね。これは推測なんですけれども、8歳の娘さんはそう言った時点で、それ以上、絵自体を見なかったんじゃないかと。「モネの絵」という知識をあてはめただけで思考がストップしてしまった。一方で4歳の子は自分で見て自分で考えて答えた。この4歳の子みたいな視点がアート思考だなと思うんです。