『約束のネバーランド』子どもたちの本当の敵は鬼ではない? 骨太なファンタジーが投げかける難問

『約ネバ』が問う倫理的な難問

 優しいエマは一人も犠牲を出さず、みんなで逃げたいと言う理想主義者。しかしノーマンとレイはエマとは違う現実主義者で「みんなが助かることは無理だ」と思っている。そして同じ現実主義者でもノーマンとレイでは考え方は違い、意見の相違によって物語は意外な方向へと転がっていく。「目的のために犠牲は許されるのか?」という問いは、何度も繰り返される本作のテーマだ。

 同じファンタジー系の少年漫画では荒川弘の『鋼の錬金術師』(スクウェア・エニックス)が「等価交換」、少年ジャンプでは冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』(集英社)が「不自由な二択」を通して、この問いと「そこからの脱出」を描いてきた。

 鬼と人間の世界の調和のために、子どもたちが食用児として犠牲になっている『約束のネバーランド』は、この二作のテーマを引き継ぐ形で、新しいファンタジー漫画に挑んでいるのだ。

 巻が進むごとに物語のスケールが大きくなり、17巻では鬼たちの支配に反旗を翻したノーマンが、食用児の戦士たちと共に鬼を絶滅させるための戦いを挑む。

 一方、エマは「ノーマンは正しい!」「でもそれは全部確率の正しさでしょ!」と反対し、すべての食用児たちを人間界に戻した後、鬼と人間の世界を切り離すため「7つの壁」と呼ばれる場所へと向かう。そして、エマといっしょに孤児院から逃げ出したドンとギルダは、鬼が人間を食べなくても退化しない「邪血」の力を持った鬼・ムジカを探す旅に出る。

 このあたりになると、鬼の社会構造や鬼が抱える食糧問題まで描かれるようになり、ファンタジーとして、物語はより複雑化していくのだが「目的のためなら犠牲は許されるのか?」というテーマは終始一貫している。同時に繰り返し描かれるのが「大人と子どもの対比」だ。

 実は本作の中心にあるのは、鬼と人間の戦いではない。描こうとしているのは子どもを犠牲にする(生きることに絶望した)大人たちと、閉じ込められた世界から脱出しようとする(生きることを諦めない)子どもたちの戦いである。つまり序盤の脱出編を、形を変えて反復しているのだ。

 だからこそ本誌連載では、大人側を代表するママ(イザベラ)が再登場し、ラスボスとして立ちはだかる。彼女の真意はすでに5巻で描かれているが、果たして彼女は本当に敵なのか? 再登場したママとエマはどう対峙するのか? 固唾を飲んで見守っている。

■成馬零一
76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。

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