The Beatles『レット・イット・ビー』特別連載:前編
The Beatles『レット・イット・ビー』誕生の軌跡 ゲット・バック・セッションから解散まで、バンドの最後期を辿る
11月25〜27日、いよいよピーター・ジャクソン監督による『ザ・ビートルズ:Get Back』がDisney+にて独占配信される。あのThe Beatles最後期の姿を捉えた映像だが、予告だけでもこれまで公開されていた映画『レット・イット・ビー』のギスギスとしたバンドの様子とはまったく違った雰囲気が伝わってきて、期待は高まるばかりだ。それに拍車をかけてくれるのが、10月15日発売の『レット・イット・ビー』スペシャル・エディションで、特に5枚組の<スーパー・デラックス>には、ニューステレオミックスに加え、数々のレア音源、最初『ゲット・バック』として出るはずだったLPバージョン(『ゲット・バックLP』)、さらに5.1サラウンド・ミックスなどがセットされ、長年待った甲斐のあるアイテムとなっている。
1970年5月に発表された『レット・イット・ビー』は、The Beatlesが最後にリリースしたアルバムではあるが、実際はラストレコーディングではない。どうしてそのようなことになったのか。その経緯や背景を知ることでこれからのThe Beatles祭りを、もっともっと楽しめるはずだ。
『レット・イット・ビー』にまとめられた音の数々は、もともと“ゲット・バック・セッション”と呼ばれ、1969年1月2日から16日までロンドンの映画撮影所、同月21日から31日まではサヴィル・ロウにあったThe Beatlesの事務所、アップルに作られたプライベートスタジオで行われたレコーディングセッション、そして30日に事務所屋上で行われたThe Beatles最後のライブ(無観客)、通称“ルーフトップ・コンサート”で演奏された曲などから構成されていた。
なぜこのような異例の構成になったのか。実はこれらはポール・マッカートニーの提案で、デビューの頃のように4人でじっくりとリハーサルやスタジオでアイデアをやり取りする様子をドキュメンタリーとして撮り、さらにサハラ砂漠やローマ時代の野外劇場など、どこか特別な場所でライブを行い世界中で公開しようという計画だったのだ(The Beatlesとしてのライブは、1966年8月29日サンフランシスコで行って以来)。
レコーディング機材の進化もあり(とはいえ、ようやく8トラックが導入されたりと現在からするとほとんどど石器時代レベルの話だが)、4人がスタジオで延々と顔をつき合わせて演奏しなくても制作を進められる部分も多くなり、さらにジョン・レノンはオノ・ヨーコとの前衛アートや平和運動へと興味が向かっていた。ジョージ・ハリスンはインド音楽やエリック・クラプトンを始め新しい音楽仲間との交流を深め、リンゴ・スターも単独で映画出演するなど、それぞれがグループ以外のソロワークを始め出していた。
もちろんポールも映画音楽を書いたりはしていたものの、ライブが好きで、The Beatlesへの思いも人一倍強かった。だからこそ、かつてのようにスタジオで皆と集まり、シンプルに演奏してバンドの原点を取り戻そう(Get Back)と提案したのだった。
ロック界全体も1967年のサイケブーム、ヒッピームーブメントなどで盛り上がり、ジミ・ヘンドリックスを始め新感覚のアーティストたちが相次いで登場し大きな変化の時を迎えようとしていたことも背景にあった。
そして、1968年のThe Beatlesはとびっきりの忙しさだった。同年2月、傾倒していたインドの導師のもとへ3カ月の予定で出向いたかと思うと、5月にはレコードや映画制作、出版などを行うアップル・コアを設立、5月末から10月まで初の2枚組となる『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』のレコーディングを行いつつ、ジョンはヨーコと実験フィルムやアート作品制作、ジョージはThe Beatlesメンバーでは最初のソロ作となるジェーン・バーキン出演映画のサントラ『不思議の壁』をリリース。まさにメンバーそれぞれのソロ活動も本格化しつつあった。
当時25~28歳のメンバーたち、特にリンゴ以外の3人はもう10年近く一緒に活動しているのだから、別の世界へ興味を広げていくのも自然の流れで、ロックの世界もまた急速な勢いで表現域が拡大し、様々なスタイルを持つアーティスト、グループが登場し、メンバーもThe Beatlesだけの枠に留まるのが不自由にも感じたのかもしれない。
しかし、だからこそ特別な設定のセッション、ライブを行うことで、かつてのようなバンドとしてのテンションを取り戻したいという思いが、リバプール時代から共に歩んできたマネージャーが急逝して以来リーダーシップを取るポールには強かったのだ。