“音楽フェスのない夏”がもたらす価値観の変化 フェスが果たしてきた役割と今後の行方を再考

文字通りの「祝祭の場」としての再興へ

 フェスという興行そのものが苦境に立たされているのは日本だけではない。イギリスでも、今年の状況によってフェスを取り仕切る会社が経済的に影響を受けると来年以降にも響いてくるという懸念が示されている(参考:NME「UK festival sector at risk of collapsing without “urgent and ongoing support”」(海外サイト))。また、4月に開催予定だったアメリカの大型フェス『Coachella Valley Music and Arts Festival』(以下、コーチェラ)は10月への延期を発表した後に今年の開催を断念した。

 そんな中で、日本から「フェスの復活」の狼煙を上げようとしているのがクリエイティブマンによるフェス『SUPERSONIC 2020』(以下、スーパーソニック)である。

「もしこれが今年9月に本当に行われたら、世界初のインターナショナルな大きいフェスになるんですよ。コーチェラもない、グラストンベリーもない、いろんな国でフェスが中止や延期になっている。そうすると世界的なニュースにもなる」(参考:SPICE「スーパーソニック開催に向けてクリエイティブマン代表・清水直樹氏が語る」

 コロナウイルスに関する状況が相変わらず不透明ななか、『スーパーソニック』は入場者数を間引くなどの入念な感染予防を施したうえでの開催を検討している。また、今年の開催がなくなった『フジロック』も、翌年の開催時には今年のチケットが繰り越せるという形での「再始動」を目指している。

 前述のとおり、2010年代において一部のフェスが背負っていた「音楽シーンの見取り図」としての役割はコロナの状況にかかわらず徐々に後退しつつあった。そのうえで現状について考えたときに、こういったことが言えるのではないだろうか。2020年代のフェスは、改めて文字通りの「祝祭の場」として再定義されるのではないか、と。

 「集まること自体が悪」とされるような今の世相において、オンラインで提供されるエンターテインメントは日々充実の一途をたどっている。ただ、おそらくその状況は、「人が集うことによる楽しさ」への欲求を潜在的に高めている。

 「オンラインでリアルを代替する必要はなくて、オンラインこその新しい楽しさを提供するべきだ」という声も各所から聞こえる。コンセプトレベルではこの言説は間違っていないものの、「リアルな場の不在」による喪失はその「新しい楽しさ」によって本当に埋められるのか。結局、多くの音楽ファンが「本当は生で観たい」と思いながら、自身の気持ちに折り合いをつけつつオンラインでのエンターテインメントを楽しんでいるのでないか。

 様々なタイプのアーティストを求めて多様なトライブが集まり、同じ場所で1日を過ごす。フェスが持つこの構造は、コロナ禍を経た時代にこそ大きな価値を持つ。「集まれない」時間を多くの人が体験したからこそ、「異質な存在が集まる」ことで生まれる感動と興奮はより鮮烈になるだろう。そこに描き出される祝祭空間そのものが、フェスというものの存在意義として上書きされるはずである。

 2020年7月上旬時点で日本における感染状況はいまだ予断を許さず、『スーパーソニック』の開催自体もまだどうなるかわからない。今から「フェスの未来」といったことを考えるのも、正直なところ時期尚早だと思う面もある。それでも、いや、だからこそ、「人が集まって楽しむ」というプリミティブな欲求を刺激する場としてのフェスの再興を今から思い描きたい。

■レジー
1981年生まれ。一般企業に勤める傍ら、2012年7月に音楽ブログ「レジーのブログ」を開設。アーティスト/作品単体の批評にとどまらない「日本におけるポップミュージックの受容構造」を俯瞰した考察が音楽ファンのみならず音楽ライター・ミュージシャンの間で話題になり、2013年春から外部媒体への寄稿を開始。2017年12月に初の単著『夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-』を上梓。Twitter(@regista13)

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