『らんまん』神木隆之介と要潤の対立が象徴する時代性 在野の研究者が下剋上を起こす?

『らんまん』万太郎と田邊の対立が表すもの

 佳境を迎えた『らんまん』(NHK総合)第85話で、万太郎(神木隆之介)に突き付けられた非情な通告。教授の田邊(要潤)によって植物学教室への出入りを禁止され、万太郎は“干された”わけだが、一連の万太郎と田邊の確執に対する反応が興味深かった。互いに認め合い、必要としていた2人の軌跡をたどりながら、価値観や信条、立場の違いによって決別に至る必然性だったり、純粋に植物を探究する万太郎が、義理や体面を重んじる世間並みの配慮を持ち合わせないがゆえに起きた悲劇等々。万太郎を擁護する意見だけでなく、田邊の心情に酌むべきものがあるとの指摘は、一方の視点に偏らない『らんまん』の作劇の巧みさを浮かび上がらせていた。

 そんな中で、理系大学院出身の筆者は一連の描写に既視感を覚えた。これは端的に研究室によくある事象ではないかと。特定分野の精鋭集団である研究室は、教授に最終決定権があり、教授の采配によって研究方針だけでなく、人事や予算管理、学生の所属が決まる組織である。かつて、日本の国公立大学には講座制が敷かれていた。分野ごとに設けられた講座は、教授を筆頭に助教授、助手、学生が所属した。ピラミッドの頂点に立つのは教授で、構成員の成果は全て研究室に帰属する。

 教授はすべての業績を掌握するが、所属する者も恩恵を受けている。研究設備や潤沢な予算を利用して自分の研究を進め、論文に名前を連ねることができるほか、教授のお墨付きを得れば専門誌の査読や学会発表への道が開ける。羽振りの良い時代には進学や就職の世話までしてもらえて、学歴社会の生存者として我慢するだけの価値はあった。

 何度かの制度改正を経て、講座制は必須ではなくなった。話を『らんまん』に戻すと、講座制のそもそもの起こりが東京帝国大学であり、後に全国に普及した経緯がある。正確には講座制が導入されたのは、1893(明治26)年だが、同様の体制は存在していた。欧米に留学した教授の陣頭指揮の下、国の威信をかけ、後進を育成しながら実績を上げるために講座制は適していたのだろう。本作には女子教育の話も出てくるが、教育機関の立ち上げから始めなければならなかったことに、先人の苦労を感じる。万太郎と田邊はこのような時世に生きていた。

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