『鬼滅の刃』の令和的な物語構造を分析 映画批評にスタジオの観点を取り戻す?
映画ライターの杉本穂高と批評家・跡見学園女子大学文学部准教授の渡邉大輔が話題のアニメ作品を解説しながら、現在のアニメシーンを掘り下げていく企画「シーンの今がわかる!アニメ定点観測」。
第4回は12月5日から「遊郭編」もスタートした『鬼滅の刃』をピックアップ。本作が描いた令和的な主人公像やアニメにおける家族の在り方、さらには『鬼滅の刃』のヒットによって生まれた映画批評の変化など、あらゆる角度から本作について語ってもらった。(編集部)
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杉本穂高(以下、杉本):『鬼滅の刃』は今さら説明はいらないようなコンテンツですが、渡邉さんは『鬼滅の刃』という作品に最初に触れたのはいつ頃でしたか?
渡邉大輔(以下、渡邉):僕は恥ずかしながら最初から触れていたわけではなく、去年の映画(『劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編』)がヒットする直前でした。過去のジャンプ漫画の様々な要素をうまい具合に組み合わせて作られていて、だからこそあれだけ広範囲にヒットしたと思うんですけど、僕のなかではジャンプ作品から突出して面白いという熱い印象はなかったんですよね。ただ、『呪術廻戦』とか『チェンソーマン』とかダークファンタジーが主流になってきて、2020年代初頭の1つのアニメの基調を作っているという意味では革新的だったとも思います。今、“ポスト鬼滅”と言って『呪術』や『チェンソーマン』が非常に話題になっていますけど、子供が市松模様を見れば「炭治郎だ」と言ったりしますし、結局エポックは『鬼滅の刃』なんですよね。『エヴァンゲリオン』に匹敵するようなコンテンツになったなと思います。杉本さんはいかがですか?
杉本:僕はテレビアニメの放送をリアルタイムで観ていました。そのときは“ジャンプ原作の話題の新作”というよりは、アニメーション制作スタジオ“ufotableの新作”として観ていました。アニメファンの中でufotableは非常に高いクオリティの作品を作ることで知られていますが、そのufotableが『週刊少年ジャンプ』の作品を手がけるということは非常に新しかったので、どうなるのかなと思って観ていました。実際に映像を観ると、今までやってきたufotableの持ち味が存分に活かされていたので“ジャンプ作品”というビッグタイトルを使っても自分たちの色を出せる強いスタジオになったんだなという感慨を持っていました。第19話の「ヒノカミ」というエピソードが今でも名エピソードと言われていますが、それを境に話題のボルテージがひとつ上がったことは覚えています。作画のクオリティや、戦闘シーンの迫力というマニアックな見方をされて火がついているというのも確かで。そういう意味ではufotableが手がけなかったら、今のような人気にはなっていないんだろうなと思っています。
渡邉:よく言われているのが、ufotableの代表作『Fate』シリーズが喜劇系アクションで、それがそのまま『鬼滅の刃』に受け継がれたということ。得意分野の作画で共通していたので結果的にうまくいったということはありますよね。
杉本:それと夜のシーンを多く描いてきたスタジオでもありますよね。今のufotableのスタイルを作った作品と言われている『空の境界』や、それに続く『Fate』シリーズ、そして今回の『鬼滅の刃』もそうです。そういう点で、『鬼滅の刃』にもufotableの持ち味がしっかり出ているなと感じました。
渡邉:『鬼滅の刃』の物語やキャラクターに関してはどのように見ていますか?
杉本:先ほど渡邉さんがおっしゃったように、いろんなジャンルの要素を組み込んだよくいるキャラクターだと思います。一方で、損得勘定を度外視した、苛烈な生き方をしているキャラクターもいるじゃないですか。そういう点で言うと、あまり令和的ではないとも感じました。
渡邉:最初に原作を読んだときに、率直にのれなかったのは“優等生で真面目”な炭治郎というキャラクターが昔のアニメに比べてマイルドすぎると思ったからなんです。過去のジャンプ漫画の主人公といえば、煉獄さんや柱(鬼殺隊最高位の剣士)のようなイメージでしたし、炭治郎は“上司である煉獄さんについて行っているフォロワー”というか。まさにチルアウトと言われているZ世代的なキャラクター。しかもシリアスな戦闘シーンでも、原作だとコミカルに描かれているところが多いじゃないですか。あそこも一旦、日常系を通過したリアリティという感じがします。それが鬼の描写にも感じるんですよね。社会学者の宮台真司さん風にいうと、今の世の中では、社会の境界線や枠組みがなくなり、世界しかなくなってしまった。その中で社会学者のジョック・ヤングがまさに“悪魔化”、デモナイゼーションということを言っています。社会=仲間の境界線が流動的になってしまったことで、現代人はふとしたきっかけで他者を悪魔のように線引きしてしまう。SNSで日常的に起こっている炎上がそうです。一方、『鬼滅の刃』でも人間と鬼の境界線が非常にファジーで、鬼にも共感できるところがあるような。非常に新しい感覚だなと思いました。
ーー炭治郎はZ世代的なキャラクターということですが、『もののけ姫』回ではアシタカもまた「普通の意味でのヒーローや主人公じゃなかった」という話もありました(参照:Z世代に向けた『もののけ姫』論 90年代の熱狂と今こそ語られるべきメッセージ)。時代ごとに主人公像はどう変化していったのか改めて教えていただけますか?
渡邉: 80年代の『北斗の拳』や『ドラゴンボール』といったジャンプ漫画の主人公は、当時のジャンプのキャッチフレーズ「友情・努力・勝利」をまさに体現していて、どんどん戦って強くなるという上昇志向でした。しかし、平成不況で90年代には『もののけ姫』のアシタカや『エヴァンゲリオン』の碇シンジという抑圧されているキャラにリアリティが出てきた。そう考えると2019年〜2020年の竈門炭治郎というのは、妹が鬼にされたり、いろんな苛烈なことがあったりしてもフラットで今の子だなという感じがしますね。
杉本:『ONE PIECE』は海賊王、『NARUTO -ナルト-』は火影という大きな夢があるのに対し、『鬼滅の刃』にはそういう夢を語る主人公がいないですよね。『チェンソーマン』はもっとすごくて「健康で、文化的な、最低限度の生活を送ること」が主人公の夢になっています。現代において、海賊王や火影になること、強い敵と戦いたいというのは読者にとってのリアリティがないんですよね。
渡邉:だから炭治郎と煉獄さんの関係性というのは、「先輩や上司に追いつきたいから頑張ろう。でも突拍子のないことをして炎上はしたくないから良い子でいよう」といった今の若者たちを表していると思います。家族を大切にするという価値観が描かれていることも僕たちの世代とは違い、現代的ですよね。
杉本:孫悟空(『ドラゴンボール』)やルフィ(『ONE PIECE』)、ナルト(『NARUTO -ナルト-』)、黒崎一護(『BLEACH』)など、『週刊少年ジャンプ』の主人公って母親が不在であることが多いですよね。その理由として『ONE PIECE』の作者・尾田栄一郎さんが「冒険の対義語が母親だから」と言っていたんです。これは非常に示唆的な発言だと僕は思いました。今、炭治郎という家族を大事にする主人公が出てきたのは、冒険よりも、世の中の縮図や人間の業の深さを見つめ、目の前のミニマムな関係を守ることに意義があるということですよね。でも冒険に出ないと成長しないと思うのでどこで成長するのかなというのはあります。
渡邉:僕が最初にあまりのれなかったというのはまさに裏返しで。僕の思春期の価値観とはちょっと違うんですよね。
杉本:『鬼滅の刃』から少し話がずれますが、トラウマに苦悩する物語はよくないのではないかという価値観が出てきたのもあります。例えば新海誠監督が『天気の子』で主人公のバックボーンを全く描かなかった理由として「トラウマに苦悩される物語にしたくなかった」とおっしゃっていました。それもやっぱり令和的なんですかね?
渡邉:そうですね。「令和的」というと2つの両極端な意味が当てはまると思っていて、一方では“チルでダウナーな状態”。そしてもう一方ではそれとは対極的な“徹底して楽しもう・享楽しようとする状態”です。ジャック・ラカン的に言えば、「欲望を諦めるな」ですね。今のリアルな感覚ってこの二極化で、どちらも共通しているのは“トラウマがない”ということです。