北村有起哉が“ふつうのお父さん”を演じていた意味 『おむすび』でついに発揮された名演

「母親って何なん?」で愛子(麻生久美子)の人生を描いたあとは第20週「生きるって何なん?」で聖人(北村有起哉)の人生を描いた朝ドラことNHK連続テレビ小説『おむすび』。胃の調子が悪いと感じていた聖人は検査を受けると、胃がんのステージ2で手術を受けることになる。
幸い、手術は成功する。胃がんの疑いがあることがわかったときの聖人は不安に苛まれ、ふらりと夜の街へーー。第20週は手術よりもその前の聖人の想いを手厚く描いた。帰宅の遅い聖人を、結(橋本環奈)たちは家でやきもきしながら待つが、孝雄(緒形直人)につきあってもらっての夜遊びなので、心配はない。仕事一筋の男ががんを患ったとき、人生ではじめて友と羽目を外し、何のために生きてきたのか考える流れは、黒澤明監督の名作のひとつ『生きる』のプロットを参考にしたのだろう。ただ、映画で主人公が口ずさむ「ゴンドラの唄」――〈命短し 恋せよ乙女〉のフレーズは出てこない。この歌は昭和の朝ドラでよく出てくる歌であるが、聖人の世代には古すぎるであろう。

聖人は孝雄とジャズを楽しむ。ジャズバーで聖人はしみじみと、父・永吉(松平健)が道楽者であったことに対抗して趣味を持たないと誓い、仕事一筋であったことを明かした。愛子とつきあいはじめたとき、ギターを弾いていたけれど、あれはたぶん、カッコつけただけで、とくにロック少年ではなかったのだと思う。趣味を持たず、仕事一筋。糸島にいたときは、たまにヒミコ(池畑慎之介)のスナックに飲みに行っていたようだけれど、妻と旅行に行ったりすることもなく、友人もいる様子もなく、家と職場の行き来のみの単調な毎日を過ごしてきた。そんな聖人だから、娘たちがギャル文化に夢中になることも理解できなかった。
聖人の告白を見て、ようやく合点がいったことがある。北村有起哉の演技である。北村有起哉は天才的な俳優だと思ってきた。筆者は彼がデビューした1998年(まさに平成)の『演劇ぶっく』で期待の新人として彼を取材して以来(私も駆け出し演劇ライターだった)、親戚のおばさんのようにずっと彼の芝居を観てきて、ほんとうに天才だと思っていた。天才といってもいろいろあって、北村は、北島マヤ(『ガラスの仮面』)のようないつもはドジっ子だけどある瞬間、憑依するみたいなタイプや、アマデウスのように神様のような、怖れを知らず、凡人を寄せ付けないタイプではなく、子どもが遊び場でひたすら楽しく遊んでいて、そこでいくらでもアイデアが出てきて、演じることが楽しくてしょうがない俳優だと筆者は思っている。

ところが、そんな北村有起哉がこと『おむすび』では精彩を欠いて見えた。何か強烈な個性があるほうが演じやすいものと聞くが、聖人は平凡なお父さん役だから仕方ないのかなと思いながら、でも少し物足りない気持ちで観ていた。ただ、ときどき、工夫は見られた。前半、娘が心配なときに口をパクパク開けしめして音をさせるという仕草は唯一、アイデアが発揮できたのではないかと見たし、孝雄が娘を亡くして、何年も屍のようになって仕事をしないでいたときに「職人として」という言葉を入れて励ましたいと提案したことはさすがと思ったし、愛子の前でギターを弾くことも北村のアイデアだったそうだ。年を経つごとに、きちんと聖人は老けていっているし、理容師として生きていこうと覚悟を決めたあとは、ふわふわして見えた若いときと打って変わって、背筋が伸びて、聖人の自覚が伝わってくるようだった。
これまでの北村有起哉はあまりにポテンシャルがありすぎて、どの作品に出ても目立ってしまう存在だった。今回は、抑制したふつうのお父さんをちゃんと演じていたわけだ。ときどき、やや手持ち無沙汰のように見えた感じも含めて演技であったのだろう。第99話で聖人が何もない人生だったと吐露したとき、北村有起哉のこの数カ月の抑制の道筋がいぶし銀に光って見えた。ずっとそういう人物を演じ続けてきたと思うと、なんたる忍耐であろうか。また、術後の病室で愛子と話す場面は、名演であった。