菊地成孔の『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』評:ミレニアム・ファルコンに乗り遅れた者共よ萌えているか?

菊地成孔の『ハン・ソロ』評

分析結果とその評価

 ルーカスが吹いた法螺がどの程度だったか? 1977年当時の発言で、「すでに6部作の構想と脚本の原型が出来上がっている」というものまであったと記憶しているが、現実的に考えて無理であろう。何作目までが大まかな構想に基づいていて、何作目からが完全な建て増しであるかの推測は、ここまである通り、筆者の能力外にある。

 ただ、一応の最新作である本作が、完全建て増しである可能性は高い。慣れぬ検索をして、膨大な量のSWに関する情報の総合的な分析を含め(この点についてはすべて割愛する)。もちろん、完全建て増しが、必ずしも絶対悪とはいえない。後出しジャンケンは何でも言える万能の技法だ。そして何でも言えるからこその、誠実さと創意が問われる。

 本作の監督はアメリカ映画、中堅の名匠とも言えるロン・ハワード(『スプラッシュ』『コクーン』『ビューティフル・マインド』『ダ・ヴィンチ・コード』『フロスト×ニクソン』等々)だが、その職人的手腕は、脚本に左右されやすい。

 そして注目の脚本は、エピソード5、6、7(SWリテラシーのない読者のために説明すると、これは映画の第二作、第三作、飛んで32年後の第七作目にあたる)の脚本を担当した、つまり、ルーカス(第一作のみ脚本)からサーガの流れ、シリーズの基本ラインを譲渡され、決定したローレンス・カスダン(製作総指揮兼)が、実子であるジョナサン・カスダンと共同で行っている。

 ローレンスは実子も実兄も妻も脚本家という、驚くべき脚本家一家の堂々たるエース格だが、本作では「親子二代」が成功に大きく尽力している。元来SWシリーズの長いサーガを貫いているのは親子の物語だからだ。一聴ありそうな話だが、「親子の絆を100年単位で追い続けるシリーズの脚本を、実際の親子が2人で担当」というのは、筆者が知る限り前例はない。もちろん、そのことが具体的に示されるシーンがある、とかではない。何せハン・ソロは、音楽の演奏における「ソロ」と同じ、「一人で」という意味で、つまり、早い時期に両親を失っていることを示している。

 ハン・ソロの人生について、おそらくルーカスは書き込んでいないだろう。『ルパン三世』に於ける次元大介にも似て、「古い拳銃をぶっ放す、なぜか一人だけ西部劇的なコスチュームの、謎のアウトロー(根は熱血漢の善良)」程度だったと推察される。ただ、この「ソロ」が「生まれつきではないが、孤児に似た境遇=家族がいない=一人=ソロ」というポイントは、漠然と考えられていた節はある。もちろん、推測の当否は問題ではない。

 問題は、改めて、だが、軍に入隊する際に入隊監理官に「名前は?」と聞かれて窮するハンに対し、「ファミリーネームは?、、、、、、だから家族いるか? という意味だ」と追い打ちをかけた入隊監理官が、「いない」と答えたハンに「じゃあ、ソロ(一人)だな。ハン・ソロ。入隊を許可する」と言って、入隊させる。こうして「ソロ」が彼の通り名になる。というシーンには、ミレニアム・ファルコンに42年間も乗りそびれたままの筆者をして、軽く涙腺を緩ませる程度にパセティックであった。ということだ。

 更に言えば、乗り遅れたはずのミレニアム・ファルコンが、真っさらのピカピカで劇中に現れ、まだ密輸業者にしてイカサマ賭博を仕切っていた、ランド・カルリジアン(元々のミレニアム・ファルコンのオーナー)の賭場にハン・ソロがチューバッカ等と共に入り込んだ辺りから、「ああ、これをハン・ソロが今から手に入れるんだ」と思った瞬間は、正直かなり感動した。これはおそらく、全世界に何100万人いるかわからない、乗り遅れ組の人々も、ほぼ同じだったのではないかと思う。

しかしこれは「狡さ」への評価

 こうしたサーガ物が構造的に持っている、「連結の感動」に属する。

 よく、パセティックなシーンに対し、泣かされておきながら、明かされているからこその、「ズルい」というコメントが付くことがあるが、十重二十重に入り組んだサーガの、伏せられていた部分がほぐされ、解き明かされ、神経シナプスのように連結する。そこには、それ自体の強烈な快感がある。一番簡素な形でさえ「初めて、その人物の秘密を聞く」ことであり、その最大形がコレであろう。何故、彼はソロという名前がつき、巨大な猿とパートナーシップを結んでおり、旧式としか思えない拳銃を使い、この船の船長であるのか?

 この構造の使用に上限を設けなければ、サーガ物は、正伝であろうと外伝であろうと、100%狡く立ち回れる。全編を通じて泣かせることも、技量さえあれば、だが(技量の評価は別リージョンである。連結を描いても感動させない下手さ、も当然存在する)、独立した物語よりも遥かに容易い。比較的上映時間が長いこの物語を、100%の連結まみれにし、技術がそこにあれば、この質の感動の不断は、化学式のように確約できるといえるだろう。

 だが、ロン・ハワードとローレンス&ジョナサン・カスダン親子は、これを良しとしない。あるいは合衆国は、娯楽に関しても厳格な契約社会だ。脚本上の行数、カット数や上映時間の分数まで、「連結部」と「独立部」がプランニングされ、契約されている可能性さえある。

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