2018年、ドラマ界のトレンドはどう変わる? ドラマ評論家座談会【後編】
成馬「オンとオフの境界はさらに曖昧になっていく」
佐藤:2018年のテレビドラマ界では、テーマとしてはどんなものが求められそうですか? 2017年は仲間同士が集まって、心地良い空間を共有できるようなドラマが目立ちましたが、そういう空間の根底には「多様性を認める」という価値観があったように思います。いろんなキャラクターがいて、その人たちが誰も傷ついていなくて、自分もその中に入っても傷つかないユートピアが求められていたというか。『カルテット』はまさにそうで、恋愛ドラマよりもそういう人間ドラマが求められていたのかなと。
成馬:オンとオフの境界はさらに曖昧になっていくのかなとは思います。視聴者側はドラマ放送時間外もSNSでその作品について発信しているし、ドラマ自体も『山田孝之のカンヌ映画祭』(テレビ東京)みたいな、役者が本人役で出ている作品が増えている。視聴者が登場人物たちと空間を共有するような感覚のドラマも、境界についての意識が重要な感覚のひとつで、そういう世界感を形にするためにも多様性を認める必要があったのかなと。
西森:そういう意味では、『監獄のお姫さま』はもう一歩先のところに辿り着いていると思いました。あの作品でキョンキョンの役は「冷静に、冷静に」っていうセリフをよく言っていましたが、逆にちゃんと感情的になる部分を描いています。女性は感情的になってはいけないとか、女性は感情的だって言われがちですけれど、感情を抑えないといけない抑圧が存在しているし、爆発させるにはそれ相応の理由があるということを、すごく意識的に書いていて、単なる「そこにずっといたい心地よい空間」だけを描くのではないんだなと思いました。だからこそ、馬場カヨが元夫と板橋吾郎を重ね合わせて、満島さんの先生は姫の母親に対して、感情を爆発させたシーンで本当にぐっときてしまいました。
成馬:宮藤官九郎は、『木更津キャッツアイ』(TBS)の頃から“誰も傷つかない優しい世界”を描く先駆けみたいな感じで、『あまちゃん』(NHK)がその集大成みたいな感じだったんですけれど、それ以降の『ごめんね青春!』(TBS)は、とある男子校と女子校が共学化する物語で、男女の衝突もちゃんと描いていたんですよね。『監獄のお姫さま』はその延長線上にあるドラマで、登場人物たちの仲間意識と同時に、ジェンダーに対する鋭い問題意識も描いていました。坂元裕二さんにせよ、遊川和彦さんにせよ、嗅覚の鋭い脚本家はジェンダー問題に意識的ですよね。
西森:今、ちゃんと支持されているクリエイターはジェンダー観にも敏感で、世の中の変化や本質をちゃんと見抜いた上で、「単に配慮すればいいんだろう?」という次元はちゃんと超えて、世の中に問題定義するような攻めた表現ができていると思います。
成馬:ポリティカル・コレクトネスを表現の規制みたいに捉えてしまうと、次の段階に行けないですよね。『逃げるは恥だが役に立つ』は、現代のジェンダー観や労働観を踏まえた上で、今の世の中における理想の人間関係を描いたのに対して、『監獄のお姫さま』はそういう考慮が求められる時代に起きている混乱を「笑い」を通して描いていました。たとえば「おばさん」という単語は誰が言うかによって意味合いが変わってくるし、そういう言葉の混乱自体をテーマにしていたところがあった。主人公たちが板橋吾郎を監禁して椅子に縛って、「乳首立っている」って突っ込むシーンがあったんですけれど、これって男女が逆なら誰がどう見てもセクハラですよね。そういう混乱させる言葉を色んなキャラクターに言わせることで、本質的にはどちらもセクハラであるという部分に気付かせようとしていた。
西森:あれは非常に鋭い問題提起でしたね。ちょっと立場を変えただけで、ざわっとする表現になって、見る側に考えるきっかけを与えていました。宮藤さんはパク・チャヌクの『お嬢さん』のプロモーション時に監督とも対談していて、もしかしたらこの作品に影響を受けているのではないかという意見も聞くんですけど、『お嬢さん』にも、男女で見方が違って、そこから考えさせるシーンがあったり、笑う人がいたり、一方で誰かにとっては痛みを感じるシーンなんかもあって、見る人によってどこの層を見ているのかが分かれるような作品だったんです。『監獄のお姫さま』にもそういう「層」があったんじゃないかと思います。
(取材・文=松田広宣)