山田洋次監督は新しい映画を撮っているーー『母と暮せば』が奏でる、伝統と先進の“交響楽”

山田洋次監督は新しい映画を撮っているーー『母と暮せば』が奏でる、伝統と先進の“交響楽”

伝統と先進性が融合する“ナガサキ交響楽”

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 長崎の原爆投下による死者は七万人を超える。本作でも登場する長崎医科大学では、学生達の多くが座席についたままの遺体で発見されたという。本作では、ガラスのインク瓶が熱で歪み、割れたガラスの破片が混じった強烈な爆風に巻き込まれるという壮絶な主観映像で、原爆の脅威を表現する。前作『小さいおうち』でも、空襲のおそろしさを、人物を排して表現したように、ここでも人が死ぬという直接的な表現をとらない。伸子は、息子の行方を捜して崩壊した、長崎の街を歩きながら見た光景を思い出し、「地獄」ということばをつぶやくまで、直接的な映像でなく、表情だけで酸鼻な世界を表現している。作品全体では、長崎の街を見下ろす美しい風景や、夕焼けに染まる家庭のセットなど、あくまで美しい映像で、対となる地獄の世界を暗示しているのだ。

 かつて映画評論家・淀川長治は、1980年代以降の黒澤明監督作が保守的で古臭いと、多くの映画評論家の批難の的となったときに、作中で役者が演じている背後の窓の外に雪が降っているシーンを例に挙げ、「こんな美しいシーンはない、なぜ皆このようなところを見ないのか」というような苦言を呈した。『母と暮せば』でも、窓の外にはらはらと舞う落ち葉、砂埃舞う風の職人的表現、そしてセット撮影ならではの、夕焼けの光に染まる室内と、幽霊を追った二階へのカメラの移動という、映画的な興奮がいくつも詰まっている。これが、山田洋次が指揮する、美術、照明などをはじめとするスタッフ達の力であり、日本の映画が忘れかけている醍醐味のひとつである。松竹の撮影所で、若くから大勢のスタッフとともに仕事をしてきた山田洋次監督は、近年の映画製作の疲弊から、ベテランのスタッフが消えていき、技術の継承が途切れることを憂慮しているという。このような映画文化を守るためには、批評家や往年の映画ファンだけでなく、新しい世代の観客達がそういった作品を評価できるかということにもかかっている。

 作中で伸子と浩二が観たと言及されている、当時のハリウッド映画『アメリカ交響楽』は、ジャズとクラシックを融合させた作曲家・ジョージ・ガーシュウィンの伝記的音楽映画だ。彼が伝統と先進性を融合させた業績は、まさに山田洋次監督の近年のスタイルを暗示するかのように見える。『アメリカ交響楽』のラストシーンは、コンサートでガーシュウィンの曲が演奏されている途中で、“ガーシュウィン死去”の報が入り、彼の代表作“ラプソディ・イン・ブルー”の演奏とともに大勢の聴衆が死を悼むというものだ。画面には、人々がひしめく地上と、死者が昇った美しい天の世界が同時に映る。

 本作『母と暮せば』のラストシーンは、山田洋次監督としては珍しく、VFXを前面に押し出し、大量の数の合唱団がレクイエムを歌い上げる幻想的でクラクラするような大スペクタクルとなっている。浩二が、「町子が幸せになって欲しいっていうのは、じつは僕だけじゃなくて、僕と一緒に原爆で死んだ何万人もの人達の、願い、なんだ」と言ったように、町子だけでなく、伸子が幸せになることへの、7万人を超える大勢の死者の“願い”が、ここで表現されているのだ。本作の音楽を担当した坂本龍一の合唱曲“鎮魂歌”の歌声とともに描かれる、その凄まじい哀悼の世界の表現は、むしろ経験を積んだ監督であるからこそ実現した挑戦的演出であろう。『母と暮せば』は、山田洋次監督の近年の作品同様、情念がほとばしるアヴァンギャルドな必見作なのである。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『母と暮せば』
公開中
監督:山田洋次
脚本:山田洋次、平松恵美子
出演:吉永小百合、二宮和也、黒木華、浅野忠信、加藤健一
企画:井上麻矢(こまつ座)
プロデューサー:榎望
製作:「母と暮せば」製作委員会
制作・配給:松竹株式会社
(C)2015「母と暮せば」製作委員会
公式サイト

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