cero 高城晶平と阿部幸大が語る「言葉・音・独自性」の作法「教養とは『広くて浅い知』のことだ」

阿部幸大×cero高城晶平 批評と音楽の対話

なぜceroの音楽は分析したくなるのか?

――高城さんは阿部さんの新著『まったく新しいテクスト分析の教科書』を読まれて、他にどんな印象がありましたか?

高城:自分もときどき書評や解説などを書くことがあるんですが、単純に「役に立つ1冊だな」と思いましたし、「これは折々で読み返すことになるだろうな」と。基本的にはレポートや卒論を準備している大学生に向けられて書かれているんだと思いますが、高校生から執筆に関わる仕事をしている人まで、いろんな人に必要な本ですよね。「あなた自身の独自性を持って書きましょう」「あなたのオリジナリティーは何ですか?」と言われると、すごく大きいことを要求されてるような気がするじゃないですか。この本ではその部分をシンプルに「自明でないことを探すことが独自性につながる」と説明していて。そう言い換えることで「そうか」と肩の荷が下りるような感じがあったんですよ。「そこにたどり着くには、まずは何よりも自明であることを解き明かすところから始めよう」という基本的なところから書かれているのもすごくいいなと。本のなかでデモンストレーションとして選ばれているテクストが映画『ゴジラ』(1954年)で、優れたゴジラ論としても読める、2度おいしい本ですね(笑)。

阿部:よかった(笑)。

高城:いちばんグッと来たのは「理念編」です。人文学に対する考え方、阿部さん自身の立ち位置、「なぜこういうことをやっているか?」ということがグッと熱量を上げて書かれていて。あの文章があることで“教科書”を超えた本になっていると思います。

阿部:ありがとうございます。今日はもう、これで終わってもいいです(笑)。

高城:(笑)。さっきも言いましたけど、“広くて浅い”ことこそが教養である、というところも共感したし、「自分も同じだ」と思いました。

 もう一つ感じたのは、分析者としてのスタイルを持つというのは、バイアスを持つことでもあるのかなと。自然科学の領域においてバイアスは取り除かれるべきノイズとして扱われるのかもしれないけど、人文学においてはそうじゃない。とはいえ他のみんなも持っていそうなバイアスではテクスト分析も自明性に留まってしまうけど、それをさらに局在化させて、その人にしかないバイアスにまでたどり着けば、それが独自性につながるというか。

阿部:バイアスを育てていく感じですよね。

高城:そうそう。これも聞いてみたかったんですけど、書評とか映画評などで、曲芸みたいなものってあるじゃないですか。分析対象のなかには明らかに含まれていない要素が混ざってるんだけど、曲芸が上手すぎるから、面白く読めてしまうという。よく覚えているのが、映画『スリー・ビルボード』(2017年)について書かれたブログで。「一瞬だけ出てくる看板に、ひらがなに見えるシミがある」というところからはじまるムチャクチャな分析なんですけど、「そんなわけないでしょ」と思いながら、読んでるうちに「すごいな、この人」みたいになってきて。すごくバズってたんですよ。

阿部:そういう方法論の元祖は、おそらくロラン・バルトの『S/Z』ですね。バルザックの『サラジーヌ』の構造を、作者の意図とは関係なく「分析」できるのだということを、パフォーマンスとして解析した本です。今の『スリー・ビルボード』の話もそうですけど、「批評は作品をより良く理解するためにある」という前提が我々にあるから、あまりにも飛躍した分析だと「めちゃくちゃだな」と思ってしまう。だけど創作の場合、ある作品のトンデモ解釈によって生まれてくるすごいものもあるじゃないですか。

高城:私もそれをやってる一人かもしれない(笑)。そうか、分析も創作の一つとして考えれば捉え方も違ってきますね。

阿部:ある創作に対していろんな意見があるように、解釈についても「なんやねん、コレ」と拒否する人もいれば、「面白い」と思う人もいる。それでいいんじゃないかなと思います。トンデモ解釈も、一つの才能ですからね。

高城:確かに。この本のなかで阿部さんは、まずはテクストをちゃんと見て、内在する情報を拾いつくすことが大事だとも書かれていて。外部から情報を引っ張ってくるのはその後でやればいいと。

阿部:長い目で見ると、その方が分析の練習になるんですよね。

高城:曲芸的なことをやってる人たちは、テクストの外にあることを語りたい欲望があるのかなと思うんですよね。テクストの中に存在しているものではなく、接続できる何かを語りたいというか。

アカデミズムの世界と音楽制作におけるノウハウの現在地

――ceroも様々な批評を受けてきたと思いますが、そのことについてはどう捉えていますか?

高城:ceroの音楽、僕が書く詞もそうなんですけど、批評とか分析したくなるトリガーみたいなものがあるんだと思います。アルバムを出すたびに、プロの人たちだけではなく、高校生くらいの人たちがnoteやブログに「このアルバムはこうなんじゃないか」みたいなことを書いてくれるんですよ。一生懸命にそれをやってくれる人が一定数いて、「こことここが符号している」とか、僕らがまったく考えてもないことを書いてくれてたり。それを目にすると首の後ろあたりがボヤーッとするというか(笑)、恥ずかしいような気持ちいいような感じになるんですよね。それは全然イヤではなくて、僕自身はけっこう好きなんです。僕はそもそも分析、解釈に対して「これは間違っている、合っている」という感覚がないし、それぞれがクリエイトしてくれる二次創作的なものも嬉しいんですよね。

阿部:ceroの作品って、全然わからないのでも瞬時にわかるのでもなく、補助線みたいなものが見え隠れする感じで、たぶんそれが分析を誘発する要素になっているんでしょうね。高校生が聴いても「分析できるんじゃね?」と思わせるところがあるというか。

高城:そうなんでしょうね。詩って基本的には暗示を含んだ語句で構成されるものだけど、僕の歌詞は、その暗示されている第一層までは比較的たどり着きやすいんじゃないかな。引用されているものも比較的拾いやすいだろうし。

阿部:ただ、ceroを論じるのは難しいと思います。『ユリイカ』の原稿の冒頭あたりに「彼らのこの陽炎のごとき捉えがたさ」と書いてるんですが、あれは「全体を捉えることはできません」と最初に逃げを打ってるんですよ。10年くらい前の文章ですから、未熟だったというのもあるんですが、今書いてもそうなると思います。『e o』に至っては、ちょっと手に負えない(笑)。

――重層的で複雑だからこそ、分析対象として魅力的ということもあるのでは?

阿部:そうですね。いろんな人に「分析したい」と思わせて、実際に語らせているというのは、豊かさの証左なんだと思います。

高城:そこは時間の経過によって変わってくるところもあるような気もしていて。たとえばセカンドアルバム『My Lost City』(2012)は“震災の後”ということが文脈としてすごく大きかったんです。当時は誰しもがその事実を踏まえて聴いていたと思いますが、あれから時間が経って、震災とコネクトしているという部分が薄れてきたというか、だんだん「音楽のなかで描かれる物語」として聴かれるようになってるんじゃないかなと。『e o』はコロナ禍で制作されたというリンクがありますが、10年後、20年後にはそれを踏まえて聴く人は少なくなっているはずで。リリースしたときは自明だったことが、時間の経過とともにそうではなくなると、分析も変わってきますよね。

阿部:それを掘り起こすのは歴史分析ですよね。『まったく新しいテクスト分析の教科書』では映画『ゴジラ』を扱っていますが、あの映画を初めて見る人は「戦争っぽいな」くらいはわかっても、第五福竜丸事件の直後に公開されたことはおそらくわからない。でも、公開翌年の1955年とかに第五福竜丸事件の文脈を無視した「ゴジラ論」を書けば、むしろ「なんで言わない?」ということになったはず。時間が経つとその自明性が消えて、自由にというか、ある意味では勝手に論じることができるようになって、それが新たな読みの可能性を拓くということはあると思います。

――私も『ゴジラ』を3回見てから『まったく新しいテクスト分析の教科書』を読んだのですが、見落としていることばかりで。本当に何も見えてないんだなと痛感しました。

阿部:「見えてない」と感じるのはいいことだと思います。私もそうで、「そもそもテクストにある基本的な情報すら取れていない」と実感したのが、こういうことをやるようになったきっかけなんですよ。私の指導教授は柴田元幸だったんですが、柴田ゼミでは理論や歴史ではなく、ひたすらテクストを内在的に分析していました。20ページくらいの英語の小説を読んでそれについて話すという授業なのですが、そのなかでレイモンド・カーヴァーの『Popular Mechanics』を取り上げたことがあって。夫婦がケンカして、赤ちゃんの手を引っ張り合ってしまう。最後の文章は「In this manner, the issue was decided.」つまり「このようにして問題は決した」で、何が起きたかはっきりと書かれていない。その小説を読んで私は「夫が赤ちゃんを奪ったんだろう」と思ったんだけど、それはシンプルに誤読だった。しかもジェンダーバイアスが入った誤読で、そのことに気付かされてビックリしてしまって。男女差別なんかしたくないと自分では思っているはずなのに、こういうところで差別というのは発現してしまうのかというのも衝撃だったし、同じものをみんなで読んで、全然違う解釈が出てくるのもすごく面白くて。そこから「自分には見えてないものがある」という目で物事を見るようになったんです。

高城:曖昧さを含んだテクストを読んだときに、それが鏡となって自分を投影してしまう。そういうことは多いと思います。

世界をより深く楽しむための必読書

――高城さんは柴田さんが翻訳しているポール・オースターのファンであることを公言していて。ポール・オースターの遺作『バウムガートナー』の書評を文芸誌「新潮」に寄稿されていました。

高城:ずっと読んでいる作家なので、書評を書かせてもらったのはうれしかったですね。『MONKEY』(柴田元幸が責任編集をつとめる文芸誌)で短い文章を書かせてもらったこともあって。ceroのサポートをやってくれてる古川麦くんが柴田さんの朗読のイベントで演奏していたり、勝手に身近に感じています(笑)。

阿部:柴田先生は文学というジャンルに留まっていなくて、カルチャーに興味がある人にひろく知られている。そういうポジションを手に入れた人なんですよね。

――阿部さんも近いスタンスなのでは?

阿部:どうでしょうか……この本はぜんぜんカルチャーとは関係ないと思いますけどね(笑)。ただ「文学研究者」という感じではなくて、「方法論の人」と認知されているのかなとは思います。

――方法論、大切ですよね。小学校の読書感想文もそうですが、日本では「自分の気持ちを書きましょう」が中心で、対象をよく見て、注目すべき点を探して……というメソッドはほとんど教えられていないと思うので。

阿部:本当にそうで、ノウハウを寄せ付けない分野ってあるんですよね。一子相伝というか「背中を見て盗め」みたいな。アカデミズムの世界も、方法論を嫌っているところがあると思います。これまではそれでよかったのかもしれないけど、だんだん行き詰ってきていて。私の世代だと「そういう神秘主義めいたやり方はやめませんか?」と思っている人も多いと思います。

――音楽の世界はどうでしょうか? ソングライティングはある程度メソッド化できるはずですが、センスとか感性といったことが重視され過ぎているような……。

高城:その通りだと思うし、僕にとってはかなり耳の痛い話でもあって。“僕らの世代”というと広くまとめすぎですけど、センスや感性みたいなボンヤリとしたワードでソングライティングをしてきて、それで何とかなってきたんですよ。若い世代の人たちのなかには、ノウハウや技術をYouTubeなどで学んだり、アカデミックな知識を積み立てながら音楽を作っている人がいて。センスだけでやってきてしまった僕らは逆襲されていると思うんですよね。

阿部:YouTubeはいろいろな状況を変えてますよね。楽器を始めたいと思ったらまずYouTubeで調べるし、料理もそう。「串がスッと通るまで」とか本で読んでも「どこからがスッやねん」って感じでよくわからないけど(笑)、動画だとわかりやすい。「何かやりたいと思ったら、まず教わればいい」というコーチング意識を人々に浸透させたというか。アカデミズムの世界はそこが進んでいなくて、まだ自分の専門内容を紹介するチャンネルぐらいしかないですね。今後に期待です。

――『まったく新しいテクスト分析の教科書』に書かれている方法論は、音楽ファン、映画ファンにもすごく役立つと思います。

高城:そうですよね。“テクスト”と言われると本や文章のことだと思いがちですけど、この本の冒頭に書いてあるように、音楽、映像はもちろん、ありとあらゆるものがテクストで。それを読み取って、分析して、統合して……というのは分析を専門的にやっていない人にも役に立つと思います。僕はここ最近、精神分析の本をよく読んでいるんですよ。そういう本は精神疾患のある人や治療したい人に留まらず、すべての人が持っている精神というものを分析することで、それぞれの人生が豊かになる一つのきっかけになりえる。この本もそれと似ているような気がします。この世界にあるものを楽しむ領域が広がるのはいいことだし、誰もが読むべき本ですよね。

阿部:ありがとうございます。この本は最初に「目が良くなる」という比喩を使ってるんですが、耳も良くなる本ですので、音楽ファンの皆さんにも楽しんでもらいたいと思います(笑)。

■書誌情報
『まったく新しいテクスト分析の教科書』
著者:阿部幸大
価格:2,200円
発売日:2026年7月23日
出版社:光文社

『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』
著者:阿部幸大
価格:1,980円
発売日:2024年7月24日
出版社:光文社

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