恐竜はいかにして人々に受け入れられていったのか? 恐竜の発見とマスメディアの200年史

ライター・編集者の速水健朗が時事ネタ、本、映画、音楽について語る人気ポッドキャスト番組『速水健朗のこれはニュースではない』との連動企画として最新回の話題をコラムとしてお届け。
第46回は、前回の映画『オークストリートの異変』についての話題に続き、恐竜とマスメディアの歴史について。
恐竜の存在が知られたのはわずか200年ほど前のこと
恐竜は、およそ2億3000万年前の三畳紀後期に現れ、約6600万年前の白亜紀末まで、1億6000万年以上にわたって地球上に生息していた。恐竜マニアの子どもならだれでも空で答えられる初級編の知識。では、人間が、かつて地球上には現在とはまったく異なる巨大生物がいたと理解するようになったのはいつか。それは、わずか200年ほど前のこと。こちらの方が案外知られていないのではないか。
現在、恐竜と呼ばれる生物が学問上はじめて正式に報告されたのは1824年のこと。1820年代のイギリスはすでに産業革命の最中にあったが、本格的な鉄道や大衆新聞の時代はまだ始まる直前だった。ちなみに日本では江戸時代後期の文政年間。瓦版や浮世絵が広く流通していた。
まず19世紀初頭のイギリスで地質学が急速に発達する。メガロサウルスを研究したウィリアム・バックランドも、地質学者であると同時に英国国教会の聖職者だった。自然界を詳しく調べることは、神がつくった世界を理解することでもあった。なかでも大きな関心を集めたのが旧約聖書に記されたノアの洪水である。地層や化石の中に大洪水の痕跡を見つけることができれば、聖書の記述を地質学的に裏付けられる。バックランド自身も当初、地質学的な発見をノアの洪水と結びつけて考えていた。
1824年、バックランドはオックスフォード近郊で以前から見つかっていた巨大な骨や顎、歯をもとにメガロサウルスを学問上はじめて正式に報告した。これが現在、恐竜についての最初の正式な学術報告とされている。ただ、この時点ではまだ「恐竜」という認識ではない。メガロサウルスは、巨大なトカゲのような爬虫類と考えられていた。
その少しあと、恐竜という分類を生み出したのがリチャード・オーウェンである。1842年、メガロサウルス、イグアノドン、ヒラエオサウルスという3種類の化石に共通する特徴を見いだし、Dinosauria、恐竜類と名付けた。ここで初めて、それまで別々に見つかっていた巨大な化石生物が恐竜として捉えられるようになったのだ。
恐竜という存在を認識した当時の人々の驚き方は、どのようなものだったのだろう。実は、恐竜に夢中な現代人が想像するものとは少し違っていたかもしれない。
当時の代表的な復元図や模型を見ると、恐竜は4本脚でのっそり歩く巨大なトカゲのように描かれている。メガロサウルスが巨大な肉食動物だとは考えられていたが、現在のように2本脚で動き回る大型肉食恐竜の姿が定着するのはもう少し後のことである。そして何より、そこまでマスメディアが発展していなかった。
マスメディアがなければ、恐竜は人気者になっていなかった
ここから先は、マスメディアの発展と重ねながら、人々が恐竜をどのように受け入れていったのかを見ていきたい。
恐竜が命名されたのと同じ1842年、イギリスでは本格的な挿絵新聞『The Illustrated London News』が創刊された。19世紀半ばは識字率が上がり、新聞や雑誌を読む人が急速に増えていた時代でもある。同紙は都市の中産階級を中心に読まれ、創刊号は2万6000部。1860年代には週に数十万部という規模にまで成長する。
この新しいメディアの特徴は、遠くの戦争や事故、外国の風景、新しい発明などを、大きな挿絵で見せたこと。恐竜もこうしたメディアを通じて広まっていく。誰も生きている恐竜の姿を見たことがない以上、化石だけでは一般の人にはその姿がわからない。研究者が骨から姿を復元し、それを絵や模型にして初めて、多くの人が恐竜の生きている姿を想像することができた。
1850年代には、ロンドンのクリスタル・パレスに巨大な恐竜模型が展示された。1853年の大晦日には、制作途中のイグアノドン模型の内部で、科学者や知識人たちによる晩餐会も開かれた。その様子が翌1854年1月、『Illustrated London News』(*1)に大きな挿絵入りで掲載されている。恐竜は研究の対象であると同時に、娯楽の一部にもなっていることがわかる。
その後、恐竜発見の中心はアメリカへ移る。1870年代、西部開拓とともに鉄道や調査隊が大陸内部へ入り、大量の化石が発見されるようになった。ステゴサウルス、アパトサウルス、アロサウルスなど、現在でも有名な恐竜が次々に発見、命名された。研究者たちが発見と命名を競った「ボーン・ウォーズ」の時代である。その競争や西部で相次ぐ化石発見は新聞にも取り上げられ、恐竜そのものへの大衆の関心も高まっていった。
日本にも恐竜の知識は入ってくる。1895年、横山又次郎の『化石学教科書 中巻』で Dinosauria が「恐龍」と訳された。ちょうど日本でも、日清戦争をきっかけに新聞や雑誌が大衆化していく時期だった。
そして20世紀初頭、恐竜史最大級のスターが登場する。
1902年、アメリカのモンタナ州で巨大な肉食恐竜の化石が発見され、1905年にティラノサウルス・レックスと命名された。それまでに知られていた肉食恐竜の中でも最大級の存在だった。この発見は新聞でも報じられ、ティラノサウルスという名前は早くから一般の読者にも知られるようになる。1905年12月の『ニューヨーク・タイムズ』は、ティラノサウルスを「怪物」と呼び、巨大な肉食恐竜が太古の地層から掘り出されたという物語として紹介した。
その知名度をさらに高めたのが、1915年のニューヨーク・アメリカ自然史博物館での骨格展示である。巨大な頭骨を持つティラノサウルスが、後ろ脚で立ち上がり、尻尾を地面につけた姿で復元された。現在では正しくない姿勢だとわかっているが、この骨格は大きな人気を集めた。その大きさを実物大で体験することは、新聞の文章や挿絵で恐竜を知るのとは違う驚きを人々に与えただろう。
同じ1910年代には、映画も一大娯楽へと成長し、ハリウッドがアメリカ映画産業の中心地になっていく。1914年にはウィンザー・マッケイによるアニメーション『恐竜ガーティ』が公開され、恐竜そのものが映画の主人公になった。1925年の映画『ロスト・ワールド』では、ストップモーションによって恐竜たちが動き回る世界が本格的に映像化された。
そして1933年の『キング・コング』では、コングとティラノサウルスの一騎打ちが描かれる。メディアを通じて知られるようになったティラノサウルスが、今度はスクリーンの中で歩き、襲い、戦う。ここでティラノサウルスは、恐竜界を代表するアイコンとしての地位を確立した。
今回は1930年代の話まで。その後、恐竜研究はいったん勢いを落とすが、1960年代以降になると再び大きく動き始める。私たちが現在知っている恐竜像が形づくられるのは、むしろそこから先の話である。
ここまで、恐竜の発見の歴史とマスメディアの発展を重ねて見てきた。研究が進む一方、その姿は新聞、博物館、映画を通じて広く知られるようになっていった。恐竜の発見史と普及史は、メディアの発達とかなりきれいに重なる。マスメディアがなければ、恐竜もいまのような人気者にはなっていなかっただろう。
■参考
*1 https://blog.geolsoc.org.uk/2021/04/15/the-first-dinosaurs-dinner/?utm_source=chatgpt.com
『世界恐竜発見史―恐竜像の変遷そして最前線』(ネコ・パブリッシング)




















