「睡眠不足で脳の“掃除”は滞る」脳科学者・毛内拡が語る、情報時代のブレインリテラシー


脳といえばニューロン(神経細胞)が主役というイメージが根強い。ChatGPTをはじめとする生成AIの中核技術も「ニューラルネットワーク」という名前を冠している。しかし、脳にはニューロン以外にも多種多様な細胞が存在し、近年の研究によって、従来は補助的に捉えられがちだった細胞群や細胞間の環境が、脳の働きを支える上で重要な役割を果たしていることが分かってきた。
お茶の水女子大学助教の毛内拡(もうないひろむ)は、2020年刊行の著書『脳を司る「脳」 最新研究で見えてきた、驚くべき脳のはたらき』(ブルーバックス)で、ニューロンの陰に隠れていた「グリア細胞」や「細胞間のすきま」に光を当て、脳科学の新たな地平を一般読者に向けて描き出した。
このたび毛内が講談社ブルーバックスの公式YouTubeチャンネル「ブルーバックスチャンネル」に出演。フリーアナウンサーの赤井麻衣子が聞き手となり、本書の内容を毛内が語る動画が公開されている。リアルサウンド ブックでは撮影現場を取材し、書籍の内容からこの5年間の脳科学の進展、そしてアウトリーチ活動にかける思いまでを聞いた。
脳は超省エネ設計

――まず、基本的なところからお聞かせください。脳は生物の中でどのような役割を果たしているのでしょうか?
毛内拡(以下、毛内):脳は見た目には均質で、昔はその働きがよく分からなかったこともあり、極端な言われ方をされた時代もありました。鼻水を作る装置だなんて言われていたこともありましたが、脳は体全体の司令塔として様々なことをしています。物が見えたり音が聞こえたりするのも脳の働きですし、お腹が空くのも、食べたものを消化するのも脳が指令を出しているからです。
――人間の脳ってやっぱりすごいんでしょうか?
毛内:はい、すごいです。さまざまな視点がありますが、例えば消費エネルギーで考えると、脳って重さで言うと体重の2%ぐらいしかないのに、エネルギーとしては基礎代謝のうち約20%も使っています。
燃費が悪く見えますが、実は人間の脳はものすごい省エネ設計になっているんです。ハードウェアとしての脳は10万年ほど前、つまり農耕が始まる前からほとんど変わってないと言われています。脳のエネルギー源であるブドウ糖が安定して摂取できない環境だったので、とことん省エネになったんですね。
どれぐらい省エネかというと、スーパーコンピューターには消費電力が200万ワットを超えるものもありますが、人間の脳は約20ワットです。10万倍も違います。
――その省エネぶりはどうやって実現しているんでしょうか?
毛内:簡単に言うと、思考のショートカットです。
たとえばスーパーにお醤油を買いに行ったとき、お店の端から端まで全部見る人はいませんよね。過去の経験から「調味料コーナーはお店のこのあたりかな」とか、あたりをつけて探す。間違うこともあるけど、間違ってもいい。その方が消費エネルギーが少なくて済む。
――省エネの仕組みは他の動物にもあるのでしょうか?
毛内:何かしらの省エネは他の動物もやっています。ただ、人間の脳はこのような思考のショートカット、つまり「推論」ができる部分が特に発達しています。前頭前野という場所です。読書や音楽、ゲームなどが楽しいのも、前頭前野が推論によって「次はこうなるかな」と予測し、それが当たったり裏切られたりするからです。
脳の掃除は睡眠中に行われる

――先生のご専門について教えてください。
毛内:「神経生理学」といって、脳の中の細胞がどう働いているかを研究しています。ただ、僕が注目しているのは細胞だけじゃなくて、細胞と細胞の間の「すきま」なんです。
――すきまですか。
毛内:実は脳全体の体積の約20%がすきまで、そこは乾いた空間ではなく「間質液」という水で満たされています。ここ十数年で、この液体が脳の老廃物を洗い流しているということが分かってきました。それまであまり注目されていなかった領域なんですが、研究してみると脳の働きにとって非常に重要だということが明らかになってきたんです。
――脳の老廃物はどのように排出されるのでしょう?
毛内:私たちの体はリンパ系を通じて老廃物を回収・排出していますが、長いあいだ脳にはリンパ管に相当するものがないと考えられてきました。では、脳で生じた老廃物はどこへ行くのか――それが大きな謎だったんです。
その答えが脳のすきまを満たす「間質液」です。これは脳脊髄液という、脳や脊髄の周囲を満たしている液体と行き来しています。
脳脊髄液が脳内に流れ込み、間質液として細胞のすきまを流れながら老廃物を洗い流していく。回収された老廃物は脳の外へ運び出され、髄膜のリンパ管を通って排出されていきます。
――脳での老廃物の回収や排出はいつも起きているのですか?
毛内:いえ、いつも一定のペースで起きているわけではなく、寝ているときにより活発になると考えられています。寝ているときは脳のすきまが広がり、間質液の通り道が広がって流れが良くなるためです。
睡眠は体を休ませるだけでなく、脳の大掃除の時間でもあるということです。ちゃんと寝ないと脳の老廃物がたまりやすくなってしまいます。
――しっかり洗うためにはどのぐらい寝ればいいんでしょう。
毛内:一般に、7時間前後は寝たほうがいいと言われています。脳内の老廃物のクリアランスは、特にノンレム睡眠の時に高まりやすいと考えられていて、睡眠不足が続くとその機会そのものが減ってしまいます。実際、6時間睡眠を2週間続けると、2日間徹夜したのと同じくらい認知機能が低下することを示した研究もあります。
――脳を洗う時の水の流れはどのように起きているのでしょうか?
毛内:詳細なメカニズムはまだ分かっていませんが、「アストロサイト」という名前のグリア細胞に存在する、アクアポリン4というタンパク質が重要な働きをしていると考えられています。この仕組みが、脳内の液体交換を支える重要な要素ではないかと考えられています。
――グリア細胞というのは?
毛内:脳を構成する脳細胞です。脳細胞は大きく「ニューロン」と「グリア細胞」の2つに分けられます。グリアというのはのりや接着剤という意味で、もともとはニューロンのすきまを埋めているだけの存在と思われていて、これまでの脳科学や神経生理学はニューロンが中心でした。実際、脳細胞といえばニューロンの印象が強いですよね。
しかし、老廃物の排出に関わる水のコントロール以外にも、ニューロンの働きを左右する細胞外カリウムイオンの濃度調節もアストロサイトが担っていることが分かってきていて、むしろグリア細胞が主役なんじゃないかとも思います。
ブレインテックの衝撃
――『脳を司る「脳」』の刊行から約5年が経ちました。この間で印象に残った変化は?
毛内:やっぱりイーロン・マスク氏のニューラリンク(Neuralink)社による脳インプラントですね。本を書いた当時はまだサルでの実験段階でしたが、今はもう人間への応用が行われています。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんが、脳に埋め込んだチップを通して動画を編集し、昔の自分の声をサンプリングして投稿したものが大きな注目を集めていました。
それまでまばたきでしか意思疎通できなかった方が、自由にコミュニケーションできるようになって、オンラインでマリオカートまで遊んでいる。
――すごい時代になりましたね。
毛内:もう一つ注目しているのは、iPS細胞から作った脳オルガノイド(脳の一部を再現したもの)を動物脳に移植する研究です。まだ基礎研究の段階ですが、移植した組織がその動物の脳の中で機能的な応答を示したという報告もあり、再生医療への応用可能性という意味でも興味深いです。
こういったブレインテック産業は、今後さらに大きな産業領域になっていく可能性があります。僕らは、脳を基本的には「触れないもの」として生きてきた最後の世代になるのかもしれません。これまでは脳は観察し、守る対象でしたが、これからは失われた機能を補い、場合によっては外部技術で支えたり拡張したりする対象にもなっていく。脳科学は、理解する学問から、介入する学問へと少しずつ姿を変えつつあると思います。
社会性の脳科学
――新しいブルーバックスの書籍を執筆中と伺いました。今回はどんな内容になるんでしょうか?
毛内:これまでの脳科学は「脳の中で何が起きているか」を問う学問でした。でもこれからは、「他者の存在によって脳がどう変わるのか」を問う必要があると思っています。人間は孤立した脳ではなく、つねに関係性のなかでゆらぐ存在だからです。社会性の脳科学とは、そのゆらぎを生理学の言葉で捉え直す試みだと考えています。
従来の脳科学は、ニューロン中心の見方によって大きな成功を収めてきました。ただ、その見方だけでは、人が人と関わるなかで、覚醒の度合いや注意の向き、感情のトーンといった脳全体の働き方、つまり脳のモードがどう変わるのかを十分に捉えきれない。こうした変化には、個々のニューロンの発火だけでなく、脳を取り巻く間質液の流れや細胞外カリウムをはじめとするイオン環境も関わっているのではないか。僕はそう考えています。
脳は配線図としてだけでなく、状態が伝播する「場」として見る必要がある。言い換えれば、脳科学の重心をシナプスから脳内環境へ少しずらすことで、社会性の問題にも新しい光が当たるかもしれない。今回の本では、そうした見方の転換を提案したいと思っています。
社会性の脳科学がこれから重要になるのは、私たちが直面している問題の多くが、もはや個人の脳の中だけでは完結しないからです。孤立や分断、過剰な同調、SNS上での感情の増幅、誤情報への巻き込まれ方など、人は他者や場の影響を強く受けながら生きています。同じ人でも、誰といるか、どんな空気の中にいるかで、注意の向け方も、感情の動き方も、判断の仕方も変わってしまう。にもかかわらず、その変化を支える仕組みは、まだ十分に分かっていません。
社会性の脳科学を本当に前に進めるには、人と人の関係を抽象的に論じるだけでは足りない。他者や環境によって脳状態がどう変わるのか。その足場になる生理学を理解する必要がある。今回の本は、その入り口として細胞外カリウムと間質液に注目するものです。
そのためには技術的なブレイクスルーも必要で、異分野との協業も大事だと考えています。例えば観測手法のヒントを得るために宇宙物理の研究者に話を聞いたり、ビルの非破壊検査を行う会社の社長に話を聞いたりしています。
――書籍の執筆以外にも、noteでの記事投稿からTikTokのショート動画まで、さまざまな媒体でアウトリーチ活動をされていますよね。すべてご自身で運営されてるのでしょうか?
毛内:はい、発信の方針や内容は、基本的に自分で考えています。公的な資金も使って研究している以上、その成果を専門家のあいだに閉じず、できるだけ分かりやすい形で社会に返していくことは重要なことだと思います。
ただ、研究者にはそれぞれ役割や得意不得意があります。研究や教育に力を注ぎたい人もいますし、人前で話すことにハードルを感じる人もいます。僕は発信すること自体が比較的好きなので、その役割を自分が担おうと思っています。特に脳科学は、もっともらしく見えて根拠の薄い情報も広がりやすい分野です。だからこそ、研究にもとづく知識を、誤解のない形で、届く言葉に翻訳していくことが重要だと感じています。
――読者へ伝えたいメッセージがあればお願いします。
毛内:脳科学は現代人にとっての一種の基礎教養だと思います。私たちは日々、過去には考えられないほど膨大な情報にさらされています。情報過多時代だからこそ、自分の脳に何を入れ、どう休ませ、どう整えるかを考える必要があります。そのための土台として、「ブレインリテラシー」はこれからますます重要になるはずです。
■書誌情報
『脳を司る「脳」 最新研究で見えてきた、驚くべき脳のはたらき』
著者:毛内拡
価格:1,100円
発売日:2020年12月17日
出版社:講談社
レーベル:ブルーバックス



























