『ローマ教皇』山本芳久に聞く、教皇レオ14世の言葉に宿る「善きサマリア人」の精神 「信仰とはわからないことに目を開いていくこと」

教皇の言葉に宿る「善きサマリア人」の精神
山本芳久『ローマ教皇』(文春新書)

 今年5月、アメリカ合衆国出身のロバート・プレヴォスト枢機卿がレオ14世として新しくローマ教皇に就任した。日本でも映画『教皇選挙』の上映と現実の教皇選挙(コンクラーベ)のタイミングが重なり、カトリック教会の動向が大きな話題となった。

 ローマ教皇の使命は、「保守か革新か」の二元論で測ることはできない。その精髄は、キリスト教2000年の伝統を次の世代へと継承しながら、過去の哲学者、神学者たち、先代の教皇たちの遺産をさらに深めていく、ダイナミズムにある。

 哲学・神学研究者の山本芳久は、8月に刊行した『ローマ教皇 伝統と革新のダイナミズム』(文春新書)のなかで、教皇の使命を「言葉の経験」を通じて深く解読している。キリスト教が持つ、信仰と理性の調和の真髄について、山本に聞いた。

「保守か革新か」では測れない教皇の使命

山本芳久氏

――まずは、本書の執筆動機から教えてください。

山本芳久氏(以下、山本):私は基本的には古典研究者で、西洋中世の神学者・哲学者であるトマス・アクィナスを中心に研究しています。何百年、あるいは千年単位の昔の文書を読む一方で、歴代教皇の言葉も並行して読み続けてきました。

 教皇の言葉は、まさに本書の副題にある「伝統と革新のダイナミズム」そのものなのです。彼らはトマス・アクィナスなどの古典を引用しながら、現代的な課題について語ります。その「言葉の経験」に刺激を受けてきたので、いつか教皇の言葉についてまとまったものを書きたいと考えていました。今回の新教皇レオ14世の就任というタイミングが、その執筆の機運を決定づけた形です。

――新教皇「レオ14世」について、メディアから「保守か?/革新か?」といった単純な切り口を求められ、物足りなさを感じたことも執筆動機の一つでしょうか?

山本:そうですね。教皇の「保守/革新」という概念は、一般的な政治文脈のニュアンスとは大きく異なります。

 教皇の使命は、イエス・キリスト以来受け継がれてきた「信仰の遺産」を次の世代に受け渡すことですから、その意味で根本的に保守的な存在なのです。ですが、キリスト教の伝統における「保守」とは、単に既成のものを固持することではありません。

 その伝統の中心にあるのは、たとえば、既存の人間関係を超えて、越境しながら新しい隣人関係を築く――イエスの言葉で言えば「隣人となる」――「善きサマリア人」のたとえです。さらに遡れば、旧約聖書のアブラハムも、住み慣れた土地から旅立つことによって新たな視界を切り開いていく「革新的」な姿を持っています。キリスト教の「伝統」とは、常に自らを超えていく脱自的なあり方を受け継いでいくことなのです。単純な保守か革新かで分けると、このダイナミックな動きを捉えそこなってしまう。それをまとまった形で一度書き記したいという思いが、本書の執筆動機の一つとしてありました。

――本書は、直近3人の教皇の「回勅(公式文書)をはじめとする言葉」に焦点を絞っています。なぜ、このようなアプローチをとったのでしょうか?

山本:教皇の言葉に触れる機会は一般には少ないと思いますが、実際に読んでみると「言葉の経験」として得るものが非常に大きいのです。

 私の専門であるトマス・アクィナスも、聖書やアウグスティヌス、アリストテレスといった過去の言葉を引用しながら自分の考えを深めていきました。それを私は「言葉の経験」と呼んでいます。自らのものの見方を、ひいては人生そのものを変えてくれる「言葉」との出会い、それが「言葉の経験」です。教皇の言葉もまた、それ自体に過去の膨大な言葉が引用されている「言葉の経験」の凝縮体です。それを丁寧に読み解き、現代の人々にもその魅力を伝えたいと考えました。

 また、直近3人の教皇に焦点を絞ったのは、教皇が「歴史上の人物」ではなく、私たちと同時代を生きている人間であることを読者に感じてほしかったからです。同時代的な危機に直面した教皇が人々を励ます言葉に触れていただくことが、一人ひとりの読者にとって、より切実なメッセージになると考えました。

直近3人の教皇に聞く「時代への向き合い方」

――直近3人の教皇、フランシスコ、レオ14世、ベネディクト16世は、それぞれどのような特徴を持つ人物でしょう?

山本:まず、前教皇のフランシスコは、非常に特異な人物であったと思います。彼は、歴代の教皇が引き継いできた名ではなく、初めて「フランシスコ」を名乗りました。これは、貧しい人々と共に生き、イスラム世界にまで自ら赴いて対話を試みた13世紀の聖人「アッシジのフランシスコ」に倣ったものです。この教皇名は、分断と格差の時代に「橋を架けていく」という、彼のスタンスをこれ以上ありえないようなメッセージ性を持って表明しています。

――新教皇レオ14世の教皇名には、どのような意味が込められているのでしょう?

山本:新教皇のレオ14世は、13世紀末の教皇レオ13世から名を受け継いでいます。レオ13世は、『レールム・ノヴァールム』(新しい事柄について)という回勅(教皇の出す公式文書の中でも最も重要度の高いもの)を出し、当時発達し始めた資本主義の中で貧困に陥り苦境に立たされていた労働者たちへの対応を世界に呼びかけた人物です。また、カトリック最大の神学者・哲学者であるトマス・アクィナス(1225頃-74)の研究を活発に推進したことでも知られています。まさに、「伝統に依拠するからこその革新」を体現した人物なのです。レオ14世は、まさにこのような精神を受け継ごうとしていると思われます。

 レオ14世は、最近初めてまとまった文書を出しました。そのタイトルは『ディレクシ・テ(Dilexi te)』といい、これは「私はあなたを愛した」という意味のラテン語です。このタイトルは、教皇フランシスコが最後に残した回勅『ディレクシット・ノス(Dilexit nos)』(彼は私たちを愛してくださった)のラテン語のタイトルに呼応しています。そもそも彼は、教皇に選ばれた最初の演説の中で、「橋を架ける」という言葉を何回かにわたって使っていて、基本的に教皇フランシスコの開かれた姿勢、すなわち格差と分断の世界に「橋を架けていく」姿勢を受け継いでいくことを表明しています。

――レオ14世は、多様性に富んだカトリックの伝統の中から、アウグスティヌスを前面に出している点が興味深いですね。

山本:まさにその通りです。彼はレオ13世の精神を引き継ぎつつも、トマスではなく、アウグスティヌスを前面に出している。これは非常に重要です。

 アウグスティヌスは、キリスト教信仰を持っていなかった時期と、持つようになってからの時期という、両方の立場を経験した「探究の人」です。様々な模索の果てに、キリスト教の信仰にたどり着き、その後も様々な「探求」を続けました。教皇就任のミサでも、レオ14世は「あなたは私たちをご自身に向けておつくりになったので、私たちの心はあなたのうちに憩うまで、安らうことができないのです」というアウグスティヌスの有名な言葉を引用しました。

 これは、キリスト教の信仰の有無にかかわらず、多くの人が抱いている「落ち着かない心」(不安や焦燥感)を否定するのではなく、その満たされなさをエネルギーにして、何かを求めていきなさいというメッセージです。レオ14世は、現代世界の中での共通する「不安」を活かし直すようなメッセージを打ち出してくるのではないかと期待しています。

――先々代の教皇ベネディクト16世については、どうでしょうか。

山本:ベネディクト16世すなわちラッツィンガー枢機卿は、20世紀を代表する神学者のひとりであり、彼の「回勅」はキリスト教神学の一つの到達点だと私は思っています。彼は通念を繰り返す意味での「保守的な人」ではありません。むしろ、伝統をしっかり踏まえつつ、それをゼロからわかりやすく捉え直し、実に新鮮な角度から提示し直してくれる能力を持った人です。「信仰」「希望」「愛」というキリスト教の根本概念に対する彼の提示の仕方は、実に斬新で「革新的」なものなのです。彼のことを「保守的」という一言で片づけてしまうのは非常にもったいない。

 さらにもう一つの大きな業績は、「生前退位」という実に大胆な行為を敢行したことです。教皇職は本来、生涯にわたって務めるのが伝統でしたが、 彼は高齢と体力の限界という現実的な判断から、自ら退位を決断しました。伝統墨守の人であれば決してやらないことです。この行動ひとつ取っても、彼は「保守的」のひと言ではけっして片づけられない人物だと分かります。

「言葉の宗教」としてのキリスト教と信仰の本質

――本書を読んで、キリスト教が「言葉の宗教」であることを改めて実感しました。

山本:そうですね。「はじめに言葉(ロゴス)があった。言葉は神と共にあった。……言葉は人となり、私たちの間に宿られた」という「ヨハネによる福音書」の冒頭の言葉にすべてが集約されます。「ロゴス」とは意味の広い語で、「言葉」と訳すこともできれば、「論理」「理法」「理」などと訳すこともできます。世界の根本的な理法そのものが人となったのがイエス・キリストだと、キリスト教神学では捉えています。イエス・キリストは、いわば、世界の意味そのものを体現した「大文字の言葉」なのです。そして、アウグスティヌスやトマス・アクィナスといった優れた神学者たちがキリストについて言葉を残し、現代の教皇もそれに基づきながら様々な言葉を語ります。これを「小文字の言葉」と呼ぶことができます。教皇の言葉という優れた「小文字の言葉」に触れることを通じて、「大文字の言葉」に触れ得る可能性が開かれていくのです。

 ニュースでは教皇の発言は「平和に関するメッセージ」などと断片的にしか報道されませんが、本書が、その言葉の背景にある世界観や思想の深さを理解する一助になれば嬉しいです。

――「宗教」というと、特に日本人は少し身構えてしまうところがあります。

山本:「信仰」というと、何か見たくないものに目を閉じて、見たいものだけを視野狭窄的に信じ込む「硬直化した信念」として受け止められがちです。

 ですが、トマスを研究していて得た洞察のひとつは、まったく違うものでした。端的に言えば、信仰を持つというのは、「自分にはすぐにはわからないことがある」ということに、目を開いていくことなのです。自分の知性では理解できない何ものかがある。「神」と呼ばれる何ものかが本当に存在するのであれば、それは原理的に人間をはるかに超えた存在と考えざるをえないわけですから、ある意味当然のことですね。そのような謙虚な姿勢でこの世界のことを丁寧に考え抜いていくうちに、むしろそれまで持っていた思い込みが相対化され、より開かれた考えを抱くようになる。トマスはこれを「信仰と理性の調和」と呼びました。

 このように、「開かれた精神」という観点からキリスト教のことを捉え直したいと私は思っています。だからこそ、冒頭で述べた「善きサマリア人」のたとえは非常に重要です。「キリスト教」とは、いわゆる「キリスト教徒」だけで閉じた共同体を形成するようなものではありません。そのような閉ざされた共同体の枠を超えて、一人ひとりの弱い人、苦しむ人の隣人になっていく。それがキリスト教の根本精神なのです。教皇フランシスコの言葉を借りれば、まさしく「橋を架ける」ことです。その最良の部分に焦点を当てて見ていくことによって、キリスト教徒だけではなく、多くの人に開かれた普遍的なメッセージが、教皇の言葉から出てくると思っています。

■書誌情報
『ローマ教皇 伝統と革新のダイナミズム』
著者:山本芳久
価格:1,155円
発売日:2025年8月20日
出版社:文藝春秋
レーベル:文春新書

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