色川武大、原節子、山田太一……それぞれの戦争体験とは? 「焼け跡のサバイバーたち」の数奇な運命

色川武大らの戦争体験

 小説『火垂るの墓』、『麻雀放浪記』、映画『ゴジラ』、『仁義なき戦い』、漫画『アンパンマン』……今日まで愛されるコンテンツに、作者の戦争体験が投影された作品は少なくない。戦後の文学、映画、漫画などのサブカルチャーの担い手の多くは、終戦時に幼児であった人間も含めて、何らかの形で戦争を経験していた。ある者は戦場に行き、またある者は家族と死に別れ、またある者は外地で終戦を迎えて苦難の末に帰国した……。そこには、同じ戦争体験といっても、千差万別のドラマがあった。

 終戦から80年を迎える2025年8月、リアルサウンド ブックではライター・佐藤賢二による短期集中連載「戦後サブカルチャー偉人たちの1945年」を掲載する。第五回は「焼け跡のサバイバーたち」と題して、色川武大、原節子、山田太一の戦争体験を振り返る。

第一回:やなせたかし、笠原和夫、川内康範……それぞれの戦争体験とは? 「戦わなかった兵士たち」の葛藤
第二回:江戸川乱歩、円谷英二、長谷川町子……それぞれの戦争体験とは? 「戦時下の表現者たち」の生き方
第三回:野坂昭如、高畑勲、中沢啓治……それぞれの戦争体験とは? 「戦火の下の子どもたち」の生き方
第四回:赤塚不二夫、ミッキー・カーチス、浅丘ルリ子……それぞれの戦争体験とは? 「外地からの帰国者たち」の生活

色川武大:終戦のドサクサで中学未卒業の少年ギャンブラー

色川武大/小説家
・1929年3月28日〜1989年4月10日
・1945年の年齢(満年齢):16歳
・1945年当時いた場所:日本国内 東京都下

『麻雀放浪記』第一巻「青春編」(角川書店)

 色川武大が阿佐田哲也のペンネームで執筆した小説『麻雀放浪記』が、終戦直後、16〜21歳ごろの筆者自身の体験をもとに書かれていることは有名だ。

 代表作『生家へ』『怪しい来客簿』『百』ほか、色川は多くの自伝的な作品を遺している。その中でくり返し大きなモチーフとして登場するのが父の武夫だ。元海軍大佐で第一次世界大戦に出征したが、40代で早々と退役してから結婚し、44歳のとき色川が生まれた。仕事もなく軍人恩給で生活する武夫は、過剰なまでに長男の武大に期待をかけて構った。就学前から読み書きを教え、色川が東京市立市谷小学校に入学して以降は、みずから息子の図画工作の宿題を代わりに作成し、教師を困惑させる。武夫は海軍の組織に不満を抱いていたのか、のちに戦争が激化して復職を打診されても応じなかった。

 こうした父の過大な愛情のプレッシャーに苦しむとともに、幼少期の色川は学校でもぽつんと孤立し、6歳下の弟がいたものの日常的な遊び相手にはならなかった。小学校高学年になると、少しずつ家の金をくすねたりしながら、浅草の演芸場や映画館、野球場、相撲場などに入り浸る。1941年には、東京市立第三中学校(現在の東京都立文京高等学校)に入学。同年12月には大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまるが、依然として浅草に通い、喜劇スターの榎本健一(エノケン)、古川ロッパ、横山エンタツ、花菱アチャコらの軽演劇や、アメリカ映画、ジャズ、歌謡曲に熱中した。

『生家へ』(講談社)

 色川による演芸や音楽についての数々の文章は、「戦前の文化は軍国主義一色だった」という偏見をひっくり返す歴史証言だ。小沢昭一との対談『浅草”わが青春”』では、戦時下に映画フィルムが配給制になった反面、コントや音楽をまじえた実演の軽演劇が大流行したと述べる。小林信彦との対談『戦前・戦中の喜劇人たち』によれば、榎本健一主演の『孫悟空』(1940年)では堂々とアメリカのディズニー映画の楽曲が使われていたという。同じ対談では、黒澤明監督による『姿三四郎』(1943年)辺りが、戦意高揚の国策色がない「映画らしい映画の最後」だと語る。一方で『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)ほかの戦争映画は好まなかった。

 そんな色川も、1943年から勤労動員のため東京都志村(現在の板橋区)にある日本マグネシウムの工場で働かされ、翌年には工場が空襲で罹災し、日本鋼管赤羽工場に移る。軍人の息子ながら素行不良だった色川は、かねより授業中に小説や雑文を書いて友人に見せて楽しんでおり、ガリ版刷りの同人誌をつくっていたことが工場に配属された軍人に見咎められ、無期限停学の処分を受けてしまう。1945年3月に同級生たちは卒業するが、無期限停学の身分では卒業も転校もできないまま、終戦を迎える。

 帝国海軍が解体されて父の武夫は軍人恩給がなくなったうえに、戦後の急激なインフレで生活が困窮するなか、色川は焼け跡の闇市で食料や日用品を仕入れて闇屋をやったり、麻雀をはじめとする博打、通運会社、小規模な出版社などの職を転々とした。

『私の旧約聖書』(中央公論社)

 この終戦から1950年ごろのことは、自筆の詳細な年譜(福武書店の『色川武大 阿佐田哲也全集』第16巻に収録)でも、「この間、いつどこで何をしていたか、本人の記憶も混沌。年譜の形に成し得ず」と記している。だが、当時の経験が後年、焼け跡のアウトローの世界を描いた『麻雀放浪記』に結実する。博打に興じて過ごしたのは戦災孤児のたまり場だった上野周辺で、もう一つのペンネームである「井上志摩夫」の名は、「うえの おしまい」のアナグラムだという説もある。

 色川は『私の旧約聖書』(中央公論社)で、自分は戦争非協力の「どうしようもない少国民」だったと振り返るが、これは反戦思想によるものではない。もともと、頭の形が少々おかしいせいで幼少期から疎外感を抱き、周囲の人間に馴染まず空想と一人遊びを好む「ゼッペキ頭の生き方」を続けた結果だという。この個人主義的な性格は、思想ではないから転向のしようもないとしつつ、それでも「戦争に、ただ平伏しなかったぞという自信が矜持となっている」と述べる。戦時下においても、みずから孤独を選び、精神の自由を貫いた人間はいた。色川武大はその実例なのだ。

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