赤塚不二夫、ミッキー・カーチス、浅丘ルリ子……それぞれの戦争体験とは? 「外地からの帰国者たち」の生活

赤塚不二夫らの戦争体験

 小説『火垂るの墓』、『麻雀放浪記』、映画『ゴジラ』、『仁義なき戦い』、漫画『アンパンマン』……今日まで愛されるコンテンツに、作者の戦争体験が投影された作品は少なくない。戦後の文学、映画、漫画などのサブカルチャーの担い手の多くは、終戦時に幼児であった人間も含めて、何らかの形で戦争を経験していた。ある者は戦場に行き、またある者は家族と死に別れ、またある者は外地で終戦を迎えて苦難の末に帰国した……。そこには、同じ戦争体験といっても、千差万別のドラマがあった。

 終戦から80年を迎える2025年8月、リアルサウンド ブックではライター・佐藤賢二による短期集中連載「戦後サブカルチャー偉人たちの1945年」を掲載する。第四回は「外地からの帰国者たち」と題して、赤塚不二夫、ミッキー・カーチス、浅丘ルリ子の戦争体験を振り返る。

第一回:やなせたかし、笠原和夫、川内康範……それぞれの戦争体験とは? 「戦わなかった兵士たち」の葛藤
第二回:江戸川乱歩、円谷英二、長谷川町子……それぞれの戦争体験とは? 「戦時下の表現者たち」の生き方
第三回:野坂昭如、高畑勲、中沢啓治……それぞれの戦争体験とは? 「戦火の下の子どもたち」の生き方

赤塚不二夫:「なるようになるさ」という故郷喪失者

赤塚不二夫(本名・赤塚藤雄)/漫画家
・1935年9月14日〜2008年8月2日
・1945年の年齢(満年齢):9歳
・1945年当時いた場所:満洲帝国 奉天市鉄西区(現在の中華人民共和国瀋陽市)

赤塚不二夫『これでいいのだ』(文藝春秋)

 「残留孤児にならなかったのは、たまたま幸運だっただけだ」。赤塚不二夫の自叙伝『これでいいのだ』(文藝春秋)にはこう記されている。

 赤塚の父である藤七は、憲兵として1931年に満洲に渡り、のちに治安維持と現地住民の宣撫を任務とする特務警察官となり、現地で結婚した寺東りよとの間に三男三女を授かる。その長男が赤塚不二夫だ。生地は北京にほど近い古北口だが、父の仕事のため、日本が支配する満洲帝国の各地を転々とした。

 藤七は、日本と敵対する八路軍(中国共産党軍)から二千円相当の賞金を懸けられていた。このため、赤塚家には敵の襲撃を受けた際に自決するための手榴弾とピストルがあったという。もっとも、藤七は、現地の中国人を差別せず、食料などの物資を惜しみなく分け与えていたので、終戦時に多くの中国人が日本人への報復と暴行に走るなかでも、赤塚家はそれらの被害を受けなかった。

 1944年に藤七は奉天(現在の瀋陽市)の消防署長となる。部下の多くは中国人で、幼児期の赤塚は中国人の子供らと入り混じって遊んだ。赤塚が寄稿した『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』(亜紀書房)によれば、1945年8月、日本の敗戦が判明したとき、日本人の子供が中国人の子供に頭を下げてお辞儀することを要求されたが、その直後にはお互いそれまでと同じような態度で遊んでいたという。

 ほどなく、藤七は満洲に侵攻してきたソ連軍に捕縛され、4年間に渡りシベリアに抑留された。残された妻りよは、まだ幼い子供らを連れて奉天を脱出する、奉天駅では多くの中国人が日本人に子供を引き取ろうと声をかけていた、冒頭の赤塚の言葉は、それを踏まえたものだ。りよと子供らは、苦難の末に渤海に面した葫芦島にたどり着いて帰国船に乗り、1946年6月に長崎県の佐世保港に上陸した。だが、まだ赤ん坊だった末娘は、りよが栄養失調だったため母乳を与えられず、船上で死去してしまう。前述の『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』で赤塚は、幼くして死んだ妹のことを「終戦直後の何もない時代、親孝行したんだな」と語っている。

 『おそ松くん』『もーれつア太郎』ほか、赤塚のギャグ漫画ではたびたび、奇妙な闖入者が平然と家庭内に入り込み、平穏な日常を破壊する。現代文化史研究者の山本昭宏は、『ユリイカ 2016年11月増刊号 総特集赤塚不二夫』(青土社)のなかで、こうした描写の源流として、満洲で暮らしていた少年期の赤塚の家には、たびたび父の仕事関係の人間が深夜に訪れることもあり、終戦直後にはソ連兵が公然と日本人の家に乱入してきた記憶が反映されていたのではないかと分析している。

『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』(亜紀書房)

 満州で生まれ育った赤塚にとって、引き揚げ後の日本の風景はすべて初めて見る物だった。広大な満洲に敷設された満鉄(南満州鉄道)は、日本国内よりレール幅の広い標準軌の車両を採用していたので、日本の列車を小さく感じたという。

 後年に赤塚が設立したフジオプロ出身の漫画家は、赤塚と同じく中国・満洲からの引き揚げ者が多かった。『ダメおやじ』の古谷三敏は奉天に生まれ、『釣りバカ日誌』の北見けんいちは満洲帝国の首都・新京(現在の長春市)に生まれた、『総務部総務課山口六平太』の高井研一郎は少年期を上海租界で過ごしている。これらはまったくの偶然ながら、同じ引き揚げ経験者として赤塚を含めて彼らの仲間意識は強い。

 同じく漫画家のちばてつやも、少年期を奉天で過ごし、赤塚の家のすぐ近所に住んでいたという。もっとも、両人がその事実を知ったのは、1980年代に漫画家仲間で旧満州を訪問したときだった。赤塚らが故郷への再訪に30年以上もの歳月を要したのは、戦後、1970年代まで日本と中国の国交が断絶していたためだ。

 赤塚によれば、満洲帰りの人間は自由業の従事者が多く、「どうでもいいや」「なるようになるさ」という考え方があるという。この精神と、赤塚個人の生来の楽天性が組み合わさったものが、『天才バカボン』でのバカボンのパパの決め台詞となっている「これでいいのだ」という達観だったのだろうか。

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