28年を経た崩壊後社会と、49年の逃亡生活……映画『28年後…』と『「桐島です」』の共通点とは

映画『28年後…』と『「桐島です」』について

同じ部屋での同じ仕事の日々が積み重なっていく

 バブル崩壊、デフレ不況、IT化の進展、リーマンショックと、めまぐるしく社会が変わる中で、雇用と住み込みの環境が一度も崩れずに続いたというのは、奇跡に近い。もし彼の職場が飲食店や街の本屋だったならまったく異なる展開になっていただろう。

 桐島は、逃亡生活のほぼすべてを同じアパートで過ごした。宿付きの工務店に運よく職を得たのだ。描かれる日常は、仕事場、アパートでの生活、あとは銭湯とよく通うバー。このごく限られたシチュエーションのみ。潜伏生活が5年、10年、20年と続き、同じ部屋での同じ仕事の日々が積み重なっていく。まるで“日常系映画”のようでもある。

 1980年代、90年代、2000年代と時代が進むにつれ、部屋の内装よりも、メディア機器やソフトの変化によって、時間の流れが示されていく。最初は逃亡者らしく、何もない部屋だった。そこに本が増え、レコードプレイヤーが置かれ、やがてそれがCD、そしてデジタル機器へと変わっていく。テレビのサイズも少しずつ大きくなる。予算的な制約を感じさせる部分もあるにせよ、時代の変化の描き方としてはおもしろかった。ただ携帯電話ひとつ持つことのない桐島の生活が不自由なものには見えなかった。

 映画では、桐島が抵抗した"独占資本主義"的、つまり彼は現代社会のどこに怒りを感じ、どこで折り合いをつけられなかったのか、という点も描かれている。一方で、ポカンとなってしまった部分もある。物議を醸そうとあえて加えたシーンだろう。ネタバレにも関わるので詳細は避ける。

 とはいえ、一緒に映画を観た編集者と共に「うーん」となった箇所がある。ただ映画を見終わって、1~2時間してから、ふと思いついた。あれは、トッド・フィリップス監督の『ジョーカー』か……。つまり、どこまでが現実でどこからが幻なのか、解釈の余地がある。まあ、これは自分が「考察系」の映画の見方に毒されているのかもしれない。

 28年を経た崩壊後社会と、49年の逃亡生活。どちらの世界も、「自由」と「孤立」を描く物語。そして、スパイクも桐島もインターネットがある世界でそこに接続されずに生きている。だからといって、さほど不自由を感じさせないところが共通点といえるかもしれない。

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