「まるでONE PIECE!?」日本の中世にいた「海賊王」 藤原純友、なぜ日本史上最大の反乱を起こしたのか

日本史上稀有の海賊による大反乱
純友に関しての記録は少ないが、ある時期に伊予掾(いよのじょう)という官職に就いたことはわかっている。地方の国に置かれた四等官の守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)ひとつであり、伊予国の行政におけるナンバー3である。近い時期に一族のひとりが伊予守になっているので、そのおこぼれかもしれない。どちらにしろ、都の貴族の視点で見ればたいした役職でなく、中央での出世はない身分である。そして、このように地方に任じられた貴族たちの多くは、その任地で土着していった。都に帰っても食い扶持がないからだ。関東では、それが武士となった。
純友も任期が終わっても伊予に留まった。彼が伊予に任官した時期には、すでに瀬戸内の海賊活動は活発だった。航行する船を襲い、積み荷を奪うなどの行為があちこちで起こっていた。任地の問題なので、純友がこれと向き合ったのは容易に想像できる。彼は海のアウトローたちと、なぜ、そうなったかさえ共有したはずだ。だから、少し後に海賊たちが大きな反乱を起こしたとき、朝廷は純友にその追捕を命じたようだ。結果、この時点での反乱は収まった。でも、ここまでだった。939(天慶2)年、純友は配下の藤原文元が抱える備前の紛争に介入し、備前介だった藤原子高(ふじわらのさねたか)を襲撃。鼻と耳を削いだ。
恐ろしい暴挙だが、これは中国王朝に伝わる刑罰のひとつにも見えるし、何らかの報復にも思える。とにかく、この時点で純友は海賊の首領となった。ちょうど、関東では平将門が朝廷への反旗を鮮明にしていた。都ではこちらの対応に追われ、純友には「従五位下」の官位を贈り、懐柔しようとしている。対する純友もこれを受け、落としどころを探した節がある。しかし、翌年には海賊活動が頻発するようになる。数百から1千とされる船団が伊予、讃岐を襲う。山陽地方や四国だけでなく、淡路、紀伊までその兵火は及ぶ。日本史上稀有の海賊による大反乱が起こったのだ。そして、その首魁こそ、藤原北家の男、藤原純友なのだ。のちに純友は瀬戸内海を飛び出し、九州の大宰府をも襲撃する。ことは瀬戸内だけの問題ではなかったのだろう。しかし、純友軍はここで敗北する。追捕山陽南海両道凶賊使という任務を与えられた小野好古の軍に破れ、伊予に敗走した純友は、子の重太丸と一緒に討たれたとされている。

この純友を含め、日本における海賊史、特に瀬戸内系海賊を解説しているのが、『海賊の日本史』(山内 譲・講談社現代新書)だ。ここに書いた純友の伝も、そこに拠る。この書でも指摘しているが、藤原純友という人物はその事績に比べて、残された史料があまりに少ない。その言葉に、多くの海賊たちが集ったのだ。どこか、人を寄せ付ける性格だったのだろう。武勇も胆力もあったのだろう。承平天慶の乱は、陸に平将門、海に藤原純友という王を刹那的であっても生み出した。彼らは陸海の何かの矛盾に立ち向かった存在だった。そして、平安時代が終わるころ、関東では陸の矛盾を絶つ形で源頼朝が征夷大将軍となる。
海をみてみると、武門として伸長した伊勢平氏は瀬戸内、大宰府、さらに中国までを結ぶ物流に目を付けていた。そこから出たのが平清盛という男。そういう見方をすれば、平将門、藤原純友という両反乱者は、頼朝、清盛より前の日本の初代陸海の王であり、彼らは平安朝廷が捨てた何かに、奉戴されていたとも考えられる。そして日本史は中央朝廷ではなく、それぞれの地に生きる人のものになっていく。





















