映画大ヒット上映中の『ウィキッド』原作小説はもっとダーク? ファンタジーの中にある現代的テーマとは?

映画と小説で大きく異なる物語
映画版では、緑の肌と強力な魔力を持ちながらも、心の奥に正義を宿すエルファバが、いかにして「悪い魔女(ウィキッド)」として扱われるようになったのか、その人間ドラマが感動的に描かれている。一方、小説ではより政治的・社会的な文脈の中で、家族関係や国家体制に翻弄されながら、やがて革命家としての道を選び取っていくエルファバの生き様が深く掘り下げられている。
中世ヨーロッパにおける魔女狩りの歴史を想起させるように、小説のエルファバもまた、社会の中で異端とされる存在だ。魔女として処刑された人々が、たとえば未婚の女性、自立的に生きる女性、あるいは知識を持つ女性であったように、エルファバもまた、強い意志と鋭い知性を持ち、緑の肌を持つ“異形”として、周囲から疎まれてゆく。正義感と行動力に満ちた彼女の存在は、時代や場所を問わず抑圧されてきた者たちの象徴ともいえるだろう。
映画では視覚的に印象的な緑色の肌や黒いマントが彼女のキャラクターを際立たせているが、小説では視覚情報に頼らないぶん、彼女が“異質”とされる内面の理由や社会的構造が、より明確に浮かび上がる。その象徴的な出来事の一つが、〈ヤギ〉の姿をした教授、ディラモンドの悲劇である。映画版では〈動物〉たちに対する差別政策によって彼が軍に捕らえられるが、原作では、なんと実験室で惨殺されるという、より陰惨な展開が描かれている。これが、エルファバが体制に対して真正面から抗い始める決定的な契機となる。
大学時代に出会い、共に正義を語り、彼女の信念に共感していた友人たちも、成長とともに次第に社会に組み込まれ、やがて彼女から離れていく。権力に吸い寄せられてゆく彼らの姿は、ひどく現実的でもある。
それでも原作には、陰鬱なテーマに負けないほどの豊かな学園生活の描写がある。エルファバとグリンダの友情が芽生えてゆく過程や、淡い恋愛模様、寮でのやりとりなど、青春のきらめきが詰まっており、彼女たちがただの政治的存在ではなく、一人の若者として生きていることを実感させてくれる。エルファバの誕生からグリンダとの出会い、そしてエメラルド・シティでの別れに至るまで――物語は上巻だけでも400ページ以上にわたり、濃密に綴られている。
また、小説では舞台となるオズの国の広がりも、地図と共に示されている。黄色いレンガの道、エメラルド・シティ、深い森や高い山々。地理的な関係を確認しながら読むことで、物語世界の立体感が増し、より深くその世界に没入することができる。
『オズの魔法使い』を知る読者であれば、エルファバが悲劇的な最期を迎えることはすでに知っているだろう。しかし、読めば読むほど、彼女の不器用なまでにまっすぐな行動が裏目に出てしまう場面には胸が締めつけられる。その姿を「それが悪の運命なのだ」と冷淡に語る周囲の人々は、決してフィクションの中の存在とは思えない。彼らの姿に、現代社会の写し鏡を見ているような気がしてならない。
























